鶴市神社「人柱伝説」
大分県中津市の史跡『鶴市神社』を参詣しました…
悲しい人柱伝説が残ります…
鳥居の扁額は正式名称『八幡鶴市神社(はちまん つるいち じんじゃ)』…
“やはた”ではありません…
厳かな雰囲気漂う境内…
地元では親しみを込めて“鶴市さま”“鶴市さん”と呼ばれているようです…
さらに用途のない階段も存在…
以前、何か別の施設があったのかも知れません…
鳥居の横には「鶴、市太郎腰かけ」と表示された二つの石が残っています…
瑞泉寺に残っている「鶴・市太郎 三口の河原 入水図」(案内板複写)…
その時、鶴は35歳、市太郎は13歳だったと言われています…
人柱となった 鶴・市太郎の母子
(案内板抜粋・リライト)
保延元年の頃、宇佐神宮の神領であった沖代平野は、湯屋弾正(ゆや・だんじょう)はじめ七人の領主が支配していたが、耕作のために築いていた井堰(いせき)が、洪水により毎年決壊していた。そこで対策を協議、“人柱”を立てることになった。七人の領主が船に乗り、袴(はかま)を川に投じ、最初に沈んだ袴の持ち主が人柱になるというものだった。結果、湯屋弾正の袴が沈み、人柱になることが決まった。湯屋弾正は、一室にこもり断食を始めるが、家臣の娘“鶴”が「祖先よりの恩に報いるにはこの時」と人柱の身代りを申し出た。その決意は固く、一歩も譲らぬ態度に、ついに湯屋弾正も受け入れた。鶴と市太郎の母子は沐浴断食の後、白無垢に身を清め、輿(こし)に乗り、井堰へ向かう…。
この犠牲の上に井堰は、領民の祈りを込め強固に完成、その後、決壊することはなかった。母子の霊は、八幡神社に合祀され『八幡鶴市神社』となった。
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