櫓山荘跡(ろざんそうあと)の桜 2017
天候に恵まれなかった今年のお花見シーズン…
やっと晴れたポカポカの日…
小倉北区『櫓山荘公園/櫓山荘跡(ろざんそうあと)』に最後の桜を見に行きました…
(撮影日2017年4月12日)
階段を上がったところに、辛うじて満開の桜が残っていました… 満足…
〈資料〉大正9年(1920年)頃、竣工当時の『櫓山荘』…
当時、小倉の文化サロンとして利用され、さまざまな文化人が訪れました…
※1階ベランダ:右から橋本豊次郎・橋本多佳子
〈資料〉北九州市立文学館に展示されていた『櫓山荘』の復元ジオラマ…
モノクロ写真では不明だった屋根の色がわかります…
『櫓山荘』は現存せず、当時の屋敷跡を表した赤レンガが敷き詰められています…
「玄関」「ホール」「食堂」「使用人室」など当時の間取りが刻まれています…
宇野浩二(小説家)※代表作「蔵の中」「子を貸し屋」
久米正雄(小説家)※代表作「牛乳屋の兄弟」「受験生の手記」
佐佐木茂索(小説家・編集者)※のち文藝春秋社長
里見弴(小説家)※代表作「多情仏心」「善心悪心」
橋本多佳子(俳人)※豊次郎妻
橋本豊次郎(建築家・実業家)※櫓山荘主
上の資料写真とほぼ同じアングルで撮影してみました…
「野外ステージ」と言われている施設跡です…
資料写真で気付いたのですが、この草むらは花壇の跡のようです…
大きな木を囲むように設計された遊歩道…
この木も当時のままなのでしょう…
北側にある「展望ベンチ」らしき跡…
当時、現在の国道199号線付近まで海岸線でした…
櫓山荘跡(ろざんそうあと)
かつて、小倉藩の堺鼻(さかいばな)見張番所があったというこの櫓山(やぐらやま)に大正9年(1920)、大阪の実業家橋本豊次郎(1888〜1937)が自ら設計して建てた洋風の住宅「櫓山荘(ろざんそう)」がありました。広い敷地には庭園やテニスコートがあり、丘の上には回遊式の庭園や野外ステージもありました。夫人は、戦後の女流俳人の第一人者といわれる橋本多佳子(1899〜1963)です。大正11年(1922)3月、俳壇の大御所高浜虚子(1874〜1959)一行が長崎からの帰途、同荘での虚子歓迎句会に立ち寄りました。多佳子は、虚子の「落椿投げて暖炉の火の上に」の一句に感動し、俳句に心ひかれます。多佳子はこの句会で、虚子門下の花形女流俳人で小倉在住の杉田久女(1890〜1946)を初めて知り、その後、久女から櫓山荘で句作指導を受けることになりました。昭和4年(1929)、豊次郎の父の死去により橋本家は大阪の帝塚山に転居しました。豊次郎は広い知識を持った文化人で、里見弴(とん)、久米正雄、宇野浩二など多くの著名人や文化人が櫓山荘を訪れ、櫓山荘は北九州の文化サロンとなっていました。また、夫妻が児童芸術運動などさまざまな文化的な運動を援助しています。大阪に転居後も、櫓山荘は別荘として使用されていましたが、昭和14年(1939)に橋本家の手を離れました。
「裏門の石段しづむ秋の潮」(昭和3年)
「ひぐらしや絨毯青く山に住む」(昭和10年)
「炉によみて夫の古椅子ゆるる椅子」(昭和14年)
これらは、多佳子が櫓山荘で詠んだ句です。
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