津村島緑地
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Googleマップを眺めていると気になる場所があります…
島のカタチをそのまま残し、周囲が埋め立てられた興味深いエリア…
しかも、池の中心には小島があります…
門司区新門司にある『津村島』です…
元々は、独立した島でしたが、埋め立てにより、陸続きになりました…
現在は、市営公園『津村島緑地』として整備されています…
「津村島防波堤」跡…
防波堤の上は、島への入口である管理用道路になっています…
津村島防波堤
津村島周辺が埋立整備される以前は、津村島へ渡る手段としては舟のみでした。舟でこの島を訪れる人々は、この防波堤に舟を係船し、島内に入っていきました。この歴史的遺産を保存しつつ、新たに活用するため、現在は、津村島内の管理用道路としてリニューアルしました。なお、正面にある石柱は、当時、防波堤に設置されており、舟を結び付けておく係船柱として利用されていたものです。
島は進入禁止となっており、現在上陸することはできません…
周囲は、海水が流れ込み「親水広場」となっています…
神様の恋(津村島にまつわるお話)
昔々、まだ神様がこの世を治めておられた頃、津村島の姫神様である『津村明神(つむらみょうじん)』様は、たいそう美しい神様で、年頃になられると、方々の男神様達から降る様な縁談の話があり、困っていました。中でも現在の門司区大積沖にある『蕪島(かぶらじま)』の男神様と苅田町沖にある『神島(かみしま)』の男神様が大変熱心でした。二人の男神様はお互いに『私こそが、津村明神の夫にふさわしい』と一歩も譲りません。津村明神様を間に、睨み合う始末です。しかし、いつまでも睨み合っているわけにもいかず、お二人で相談された結果、得意の武術で試合をして、勝った方の男神様が津村明神様を妻に迎えるという取決めをなさいました。いよいよ試合の当日、神島の男神様は弓を携え、蕪島の男神様は大降りの太刀を携えて試合が始められました。まず、神島の男神様は自慢の弓を力の限り引き絞って、放たれました。矢はぐんぐんと伸び、蕪島の真ん中を射抜いて、白野江の浜にぐさりと刺さりました。今でも蕪島には大きな穴がポッカリと開いています。さて、一方蕪島の男神様は力任せに太刀を振り下ろし、今の苅田沖、太刀の浦にまで届きました。今でも松山岸にはその時にざっくりと削りとられた跡があるそうです。そういう具合で、なかなか勝負がつきません。美しい島や岸のあちこちを削り取ったり、穴を開けたりするばかりです。いかに恋の争いとはいえ、神様がなさることではないと、曽根沖の間島(まじま)神様がまあまあと仲に入られて、結局津村明神様は蕪島の男神様のお嫁さんになられました。また、仲に入られた間島神様には津村明神様に優るとも劣らぬ美しいお姫様がおられたので、この姫神様が神島のお嫁さんになられました。これでやっと四方丸く収まり、新門司の海には平穏な日々が戻りました。
石灰岩の採掘
津村島は石灰岩からなる島であったため、明治40年頃より採掘が行われておりました。遠くは広島県よりこの島に移住してきており、石灰製造業や採石業者として39戸200人余りが住んでいたとされています。当時は発破音等で随分にぎやかであったようです。現在は、採掘によってできた大穴に海水が流れ込み大きな池となっています。
大潮 満潮時に海水が流れ落ちる現象
新門司2期埋立により、津村島周辺は現在のように水面を残す形で整備されました。そのため、、外海と内海では潮の干満にタイムロスが発声するようになり、大潮の満潮時には外海から内海へ水が流れ落ちるように流入してくる現象が見られるようになりました。
「北九州フィルム・コミッション」が誘致してロケできないかな(SF映画)…
通称:釣鐘岩(旧通称:津村小島)
明治39年、今津浦の漁師達に漁業許可を出した際の漁業範囲の基点として利用されていました。新門司2期埋立事業でも、地元の方々のしんぼるとして残してほしいと要望が強く、現在のような形状となっています。
地質的に「平尾台」あたりと関係あるのかな…
遊歩道突き当たりの「眺望ゾーン」からは
対岸の「新門司港フェリーターミナル」を眺めることができます…
今から約110年前に、こんな小さな島に
200人余りの人たちが生活をしていたという時の記憶…
今は、島に生息していると思われる鳥のさえずりだけが聞こえます…
石炭と石灰岩、長崎の「軍艦島」と採掘内容は異なりますが
「ミニ軍艦島」とも言える、あまり知られていない場所です…
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