〈追記〉空襲とそごう
昭和19年(1944年)6月15日、米軍のB-29爆撃機が初めて北九州を空襲。中国・成都基地から北九州の八幡製鉄所へ飛来・爆撃した(八幡大空襲)。11月24日、今度はマリアナ基地のB-29爆撃機70機が、東京を襲って爆撃を加えた。これを口火として、米機による本土空襲は、日を追って苛酷なものとなった。阪神地方に対する空襲も開始された。同年12月9日、大阪は初空襲に見舞われ、市内東住吉区瓜破(うりわり)地区が被災した。この頃から、そごうは大阪本店・神戸支店とも当直員を大幅に増員し、空襲に備えることになった。当時、すでに男子従業員は激減していたので、当直長をつとめる役付者は、ほとんど隔日に宿直しなければならなかった。
翌20年(1945年)3月10日、B-29爆撃機325機が東京を空襲(東京大空襲)。3月12日、B-29爆撃機288機が名古屋を空襲(名古屋大空襲)。3月13日、大阪に対する大規模な空襲が行われた。この日、午後11時30分頃からB-29爆撃機274機が襲来し、およそ3時間に渡って、市中心部を猛爆した(大阪大空襲)。被害は甚大で、心斎橋筋一帯をはじめ、市の大半は焼夷弾、爆弾によって、完全に焼土となった。この空襲下にあって、大阪本店は、被爆こそ免れたが、店舗の東、南、北側から猛火が襲い、鰻谷納品口の商品がたちまち火炎に包まれた。しかし、当夜の当直員の懸命な消火作業によって、店内への類焼は喰い止めることができたのであった。
参考文献
●大日本百貨店帖(百貨店新聞社・1937年発行)
●株式会社そごう社史(そごう社長室弘報室・1969年発行)
●株式会社そごう小史(そごう小史編集委員会・1979年発行)