〈追記〉北九州市の百貨店史
1963年の五市合併当時、九州最大の人口を誇り九州初の政令指定都市となった北九州市。
現在は、その座を福岡市に明け渡しましたが、非県都としては、中四国九州エリア最大の都市に変わりはありません。
北九州市は、古くから産業・交通・軍事の要衝として栄え、商業の要、街の顔として数多くの百貨店が存在していました…
「小倉井筒屋」新築開店記念ビジュアル(1936年)
「小倉玉屋」絵ハガキ(増築前・5階建て時)
門司・栄町にあった「小倉玉屋」の前身「田中丸呉服店」(大正期)
「小倉玉屋」リニューアル前(1989年)(C)北九州市の建築
「小倉玉屋」リニューアル後(1996年)(C)北九州市の建築
周辺の電線が地中化され、突き出し看板を撤去、正面玄関も異なる
小倉玉屋
1930年に八幡市西本町(現北九州市八幡東区西本町)に玉屋分店を開店し、蛭子町に別館を開設した。本館は1935年竣工。1938年に小倉市室町(現北九州市小倉北区室町)に開店。当初の店名は「菊屋百貨店」。進出に反対していた地元に配慮し、「玉屋」の商号は用いず、「菊屋」の名称で営業を開始した。戦後、店舗は「そごう大阪店(OSAKA PX)」と同様にアメリカ進駐軍に全店接収され、進駐軍専用の「KOKURA PX(軍人・軍属向け物品販売所)」となり、接収を解かれたあと、正式に「玉屋」の商号を用いる。建物は何度も増築され、8階建てになっているが元々は5階建てである。デザインの扱いが異なるので増築の過程は一目瞭然。当時の最上階に見られる丸窓は昭和初期の特徴と言える。2003年解体撤去。跡地は複合商業施設「リバーウォーク北九州」になっている。
1806年 田中丸家が佐賀県牛津で荒物商を始める
1925年 玉屋グループの本家格である「福岡玉屋」創業
1937年 旧小倉市田町に小倉玉屋の前身「菊屋」設立
1941年 社名を「菊屋」から「小倉玉屋」に変更
1952年 米軍に建物を接収され分散営業していたが本館で再開店
1973年 本館増築。延べ床面積26,607平米に
1996年 福岡玉屋が「博多リバレイン」への出店を断念
2002年02月 田中丸善昌会長兼社長が退任。小倉北区室町の店舗を閉店
2002年03月 旧小倉そごうのビルで仮営業開始
2002年10月 営業終了を発表
2002年12月 営業終了
かねやす百貨店
文久年間、小倉にて創業。初め米穀店であったが、のち慶応年間に「かねやす呉服店」となる。この建物は1920年、木造4階建のデパート式経営を始めた時のもので、1936年、鉄筋7階建の「かねやす百貨店」になった。しかし、1952年、附近の出火により消失し、2年後に破産してしまった。(1937年当時住所 小倉市魚町127)
兵庫屋
1918年に鳥町三丁目に開店。大分県中津資本。外観は赤煉瓦三階建ての高層洋館建築で小倉の名物デパートであった。呉服が主であったが、下駄を入口で預け、三階まで絨毯の上を歩いて買物ができた。弁当・おしるこをメニューとした食堂も人気だったという。1926年閉店。その後「小倉商工会議所ビル」となった。
八幡市中央区に開店した“マルキュー”こと「九州百貨店」(1932年)
九州百貨店(マルキュー百貨店)/ 八幡丸物
1932年10月設立。大阪「白木屋」出身の支配人が手掛けた本格派百貨店。北九州随一の4階建ての近代的な大型百貨店として、商圏は広く、顧客は広域に渡っていた。のちに経営不振から「京都丸物」傘下となり、1954年9月「八幡丸物(八幡セントラルビル)」として発足した。
八幡市西本町4丁目にあった「八幡玉屋(玉屋デパート分店)」(1932年)
新築ビル竣工時の門司「平井屋」(1934年)
その後、経営不振に陥り、1934年末に「山城屋」に買収された
開業当日の「小倉井筒屋」(1936年)
1936年10月6日「開店披露大売出し」風景
小倉井筒屋
昭和8年頃、第10代小倉市長だった神崎慶次郎氏は当時三越にいた高瀬潔にすすめられ、自分の経営する高級旅館「梅屋」の家屋敷を提供し、百貨店の設立を計画。さらに当時の九州電気軌道(現・西鉄)の村上専務に資本の件で相談し、半額の出資を要請した。残りの資本は、門司で井筒屋という呉服店を経営していた住岡由太郎氏に相談、出資を受諾、専務として迎え入れることになる。昭和10年7月18日に小倉商工会議所で創立総会を開き、7月30日に資本金100万円で株式会社井筒屋の設立登記を完了。昭和11年10月6日、鉄筋地下1階、地上7階、2,497総延坪で宝町(現・船場町)に完成し開店した。開店当時は玄関を開けると、10数分で店内は各階とも超満員になり、すぐ入客を制限して順次、入り口で待機する客を誘導するという盛況を終日くり返した。特に人気を呼んだのはエレベーターガールで、当時は東京からの転勤者が多数あり、その娘たちが採用されたため、スマートな服装と東京弁が好評であり、筑豊や中津方面からの腰弁当の見物客も殺到して、景気のよい開店風景であったという。
若松市議選の候補者看板が立つ新築中の「丸柏百貨店」(1938年)
日中戦争“徐州陥落”記念売出しの「小倉井筒屋」(1938年)
戦前の小倉のメインストリートだった室町通り(1939年)
手前:小倉警察署 一番奥:菊屋百貨店
「小倉井筒屋」前の電車通り(1939年)
のちの西鉄電車北九州線
小倉「かねやす百貨店」前の電車通り(1939年)
のちの西鉄電車北方線
“復興祭”で賑わう勝山橋付近と迷彩「小倉井筒屋」(1946年)
戦後の改築前の若松「丸柏百貨店」
歳末「大歳の市」売出し風景(1951年)
丸柏百貨店
1948年創業した石炭財閥系百貨店「丸柏(まるかし)」。1888年(明治21年)、広島県因島出身の店祖、柏原氏が若松で太物商をはじめたことに由来する。その後、「柏原太物店」から呉服店「柏原呉服店」「丸柏呉服店」となり、戦後「丸柏百貨店」となった。石炭産業の衰退で業績が悪化し、1979年に経営援助の要請を受けた井筒屋が子会社化し「若松井筒屋」となった。1995年閉店。建物は壊され、現在はビジネスホテルになっている。
森永ミルクキャラメルの巨大広告塔と「小倉井筒屋」(1951年)
第一次増築工事が完成した「小倉井筒屋」(1953年)
6階と7階の間に朝日新聞の電光ニュース板がある
決算大処分の懸垂幕がさがる門司「山城屋」(1954年)
屋上に観覧車・毎日新聞の電光ニュース板がある
山城屋
1896年(明治29年)、大阪市で現在は別会社になっている「イカリソース」のメーカーとして創業。1934年に門司出張所が地元百貨店「平井屋」を買収して百貨店業に進出した。北九州市内の百貨店では最も古い。以来門司の老舗企業として営業を続けた。1953年に建てられた店舗は、地上5階・地下1階、売場面積約7,200平米。1993年8月期の売上高約26億7,900万円。ピーク時は1975年度に約32億円を売り上げた。1994年1月24日、福岡地裁小倉支部に和議申請・受理。破たん後、部分営業をしていたが、2001年1月29日営業継続を断念。同年3月末日閉店。現在は解体され、マンションが建っている。
GHQ「KOKURA PX」接収解除後に電飾を施した珍しい「小倉玉屋」(1955年)
「九州百貨店(マルキュー百貨店)」の後継として開店した
京都の老舗百貨店「丸物」傘下の「八幡丸物」(1956年)(C)jr6gnk
「八幡丸物」前を通る西鉄ライオンズ優勝パレード(1956年)
ひときわ大きさが目立つ「小倉井筒屋」(1957年)
左上:小倉豊楽園球場
西鉄魚町電停付近から見た「小倉井筒屋」(1950年代後半)
手前:緑屋(のちの小倉東映会館)
建設中の「八幡井筒屋」(1959年)
設計:日建設計工務 施工:竹中工務店
平和通り小倉駅前交差点付近から見た「小倉井筒屋」(1960年代)
小倉城天守閣から見た「小倉玉屋」(1960年)
“小倉博”会場駐車場から見た小倉城と「小倉玉屋」(1960年)
正式名称:市制60周年記念 伸びゆく北九州 小倉大博覧会
雑居ビル化した小倉「かねやす百貨店(新館)」跡(1960年代)
屋上の防空監視哨がわかる
開業時の「小倉東映会館」と塔屋に大時計がある「小倉井筒屋」(1961年)
開通したばかりの若戸大橋と「丸柏百貨店(右下)」(1962年)
若松「丸柏百貨店」前を通る“ミス若松”のパレード(1962年)
若松「丸柏百貨店」屋上観覧車(1962年)
背後:建設中の若戸大橋
小倉駅側から見た「小倉井筒屋」「小倉東映会館」(1962年)(C)毎日グラフ
左下:のちの小倉そごう建設地に移転した永照寺が見える
「小倉東映会館」前を通る東京オリンピック聖火リレー(1964年)
奥の「小倉井筒屋」壁面に東京オリンピックのロゴマークが見える
門司「山城屋」前を通る東京オリンピック聖火リレー(1964年)
戸畑岩田屋
5市合併当時、北九州市には山城屋(門司区)・丸柏百貨店(若松区)・小倉玉屋(小倉区)・小倉井筒屋(小倉区)・八幡丸物(八幡区)・八幡井筒屋(八幡区)と6店の百貨店があったが、戸畑区(旧戸畑市)には昔から百貨店が無かった。そこで岩田屋は戸畑支店の設置を計画。1965年(昭和40年)5月29日に国際ビルのテナントとして開店した。地上5階・地下1階、売場面積4,380平米。1979年(昭和54年)の黒崎そごうオープンなどの影響を受け、1982年(昭和57年)2月に閉店した。
小倉城から見た「小倉玉屋」と建設中の「ダイエー小倉店」(1966年)
ダイエーの九州1号店であった
正金相互銀行(現 福岡中央銀行)と「小倉玉屋」(1967年)
6階から出火した「小倉玉屋」(1967年)
東壁面外装工事中の「小倉井筒屋」(1960年代)
勝山公園のジェットコースターと「小倉井筒屋」(1968年)
現 北九州市役所建設地
隣接していた小倉記念病院跡に駐車場棟を増築中の「小倉井筒屋」(1971年)
正面玄関上の屋上塔屋にネオンが設置された「小倉井筒屋」(1970年代)
若松「丸柏百貨店」前を通る全国でも珍しい市営貨物路面電車(1974年)
黒崎そごう
1977年10月21日会社設立。1979年10月6日開店(そごうグループ10号店)。26,332平米。資本金7億5千万円。最高売上高380億円(91年度)。北九州市の副都心、国鉄黒崎駅前東地区の再開発ビル「メイト黒崎」の核テナントとして開店。黒崎そごうのほか、ジャスコ黒崎店・メイト専門店街・公共施設(消費生活センター等)・文化教室なども配され、そごうとしては初めての入居形態だった。黒崎そごうの開店により、そごうは10店舗(グレーターそごう計画)を達成。北海道から九州まで、百貨店業界で初めて日本列島4島すべてに店を出現させることになった。オープン時のキャッチフレーズは「まるで宇宙戦艦!」。2000年12月25日閉店。2001年1月31日に全従業員を解雇、3月12日東京地裁が再生手続廃止を決定、4月18日東京地裁が破産宣告、のち清算された。
屋上に小倉ワシントン靴店のネオンがある
小倉「かねやす百貨店(新館)」跡(1980年)
黒崎駅前ふれあい通りを挟んで向かい合う
「八幡井筒屋(黒崎井筒屋)」と「長崎屋黒崎店」(1980年)
小倉城から見た「小倉玉屋」(1982年)
右:ホテルサンルート小倉(旧小倉キャッスルホテル)
複雑な「小倉井筒屋」本館・別館・駐車場棟ビル群(1983年)
勝山橋から見た室町方面「ダイエー小倉店」「小倉玉屋」(1985年)
お中元時期の「黒崎そごう」と西鉄路面電車(1985年)(C)曳野利
「小倉井筒屋」の大型カラー電光掲示板“デカ電太”(1987年)
手前:小倉東映会館(4F小倉東映シネマ1・シネマ2)
短命に終わったファッションビル「黒崎デビュー」(1988年)
後方に「トポス黒崎店」と「メイトビル」が見える
別館・駐車場棟・電光掲示板がある「小倉井筒屋」(1989年)
1979年 若松「丸柏百貨店」は井筒屋と資本提携
「若松井筒屋」に商号変更(1993年)
建設中のピンク色「小倉そごう」とレンガ色「小倉井筒屋」(1993年)
小倉そごう
1969年小倉駅前出店用地買収(約3,500平米)。1988年会社設立。1993年10月10日開店(そごうグループ38号店)。43,774平米。資本金1億円。最高売上高433億円(97年度)。初期投資など515億円の負債を抱え、毎月億単位の借入金返済に追われた。坪単価で平均24,000円という高額な賃料と、地権者を優遇した売場配置がネックとなった。初期計画には東映と共同で「小倉東映会館(閉鎖解体済)」の場所への出店案もあったといわれる。オープン時のキャッチフレーズは「咲かせたい、暮らしルネッサンス」。2000年12月25日閉店。
小倉駅まで延伸開通したモノレールと「小倉そごう」(1998年)
「黒崎そごう」跡に移転オープンした「黒崎井筒屋」(2001年)
「黒崎井筒屋」跡にオープンした「井筒屋ANNEX-1」(2002年)
「小倉井筒屋」周辺の空撮(2003年)
その後「小倉市民会館」「小倉東映会館」は解体
「小倉そごう」「小倉玉屋(仮店舗)」跡にオープンした「小倉伊勢丹」(2004年)
小倉伊勢丹
伊勢丹70%・井筒屋30%が出資した現地法人。セントシティ北九州(旧小倉そごうビル)の核テナントとして2004年2月10日に開店した。開店当初、伊勢丹負担の改装費は50億円にのぼった。小倉そごうの全館運営に対し、小倉伊勢丹は地下1階から地上6階までの手狭な印象の入居となった。合弁元の本丸である小倉井筒屋との競合を避けるため、セカンドライン中心の商品展開や、百貨店の上顧客窓口である外商部を設置できなかった。最高売上高182億円(開店初年度)。小倉そごうの印象が強く残るビルに、居抜きである小倉伊勢丹は「伊勢丹ブランド」を発揮できず、わずか4年で閉店した。2008年3月25日閉店。
屋上に戦時中の防空監視哨が現存する「かねやす百貨店(新館)」跡(2009年)
魚町交差点からの「小倉井筒屋」(2009年)
「井筒屋」ご案内サービス担当 制服 左から
秋冬(1998年〜)春夏(1999年〜)秋冬(2005年〜)春夏(2006年〜)
南側壁面が姿を現した小倉「かねやす百貨店(新館)」跡(2011年)
「小倉東映会館」跡地に建つ「オリエントキャピタルタワー」と「小倉井筒屋」(2016年)
北九州市の百貨店史まとめ |
旧小倉市鳥町 | 1916年〜1920年 | 後 解体 現 小倉商工会館 |
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旧小倉市魚町 | 1920年〜1954年 | 現 小倉ワシントンビル | |
旧八幡市 西本町(本館) 蛭子町(別館) |
1930年〜1932年 | 小倉に移転 後 解体 |
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→ 後継:山城屋 |
旧門司市本町 門司区本町 |
1932年〜2001年 | 後 解体 現 サンリヤン門司港 |
旧門司市西堀川町 門司区西堀川町 |
不明 | 後 解体 | |
→ 改称:マルキュー百貨店 → 後継:八幡丸物 |
旧八幡市中央区 八幡東区中央町 |
1932年〜1971年 (八幡丸物1954年〜) |
西中央公団住宅に移転 後 解体(旧店舗・新店舗) 現 大八木眼科医院(旧店舗) |
→ 改称:井筒屋戸畑店 |
旧戸畑市 九軌電鐵ビル |
1933年〜1937年 | 井筒屋に吸収合併 後 解体 |
→ 改称:九軌百貨店 → 改称:九軌経営 井筒屋 (井筒屋百貨店) → 改称:井筒屋本店 (小倉井筒屋) |
旧小倉市寳町 小倉北区船場町 |
1936年〜営業中 | |
菊屋百貨店 → 改称:小倉玉屋 |
旧小倉市室町 小倉北区室町 |
1937年〜2001年 | 後 解体 現 リバーウォーク北九州 |
→ 後継:若松井筒屋 |
旧若松市中川通 若松区本町 |
1938年〜1995年 | 後 解体 現 ホテルルートイン若松駅東 |
→ 改称:井筒屋黒崎店 (黒崎井筒屋) |
旧八幡市黒崎 八幡西区黒崎 |
1959年〜2001年 | 後 井筒屋ANNEX-1(解体) 現 GP黒崎ランドマークス |
八幡西区黒崎 | 2001年〜2020年 | 黒崎そごう跡に移転 後 閉店撤退 |
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戸畑区浅生 | 1965年〜1982年 | 後 解体 現 アネーロあそう |
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八幡西区黒崎 | 1979年〜2000年 | 現 メイト黒崎ビル(破産) | |
八幡西区光貞台 | 1981年〜1984年 | 後 太陽家具北九州西店(閉店) | |
小倉北区京町 | 1993年〜2000年 | 現 セントシティ | |
小倉北区京町 | 2002年〜2002年 | 現 セントシティ | |
小倉北区京町 | 2004年〜2008年 | 現 セントシティ | |
小倉北区京町 | 2008年〜2019年 | 現 セントシティ |
※すべて個人調べのため、間違っている場合がございます。あらかじめご了承くださいませ。
※チェーンストアの西友が経営していた「小倉西武(LIVIN)」はリストには含めません。
※かねやす百貨店・八幡丸物・山城屋のロゴはイラレによる個人トレースのため実際のロゴとは異なります。
出典・参考文献〈一覧〉
●大日本百貨店帖 百貨店新聞社 1937年
●井筒屋三十年史 井筒屋 1965年
●岩田屋経営史 岩田屋 1967年
●佐世保玉屋五十年史 佐世保玉屋 1967年
●写真集 明治大正昭和 小倉(ふるさとの想い出) 国書刊行会 1979年
●写真集 明治大正昭和 門司(ふるさとの想い出)国書刊行会 1979年
●写真集 明治大正昭和 若松・戸畑(ふるさとの想い出) 国書刊行会 1980年
●写真集 明治大正昭和 八幡(ふるさとの想い出) 国書刊行会 1982年
●北九州市20年のあゆみ 北九州都市協会 1983年
●写真集 福岡100年 西日本新聞社 1985年
●北九州市の建築 北九州市・北九州都市協会 1989年
●北九州思い出写真館 北九州市住まい・生活展実行委員会 1993年
●門司百年 北九州市門司区役所 1999年
●目で見る北九州の100年 郷土出版社 2001年
●毎日グラフ 若戸大橋完成記念号 毎日新聞社 2006年復刻版
●北九州の今昔 上巻 郷土出版社 2010年
●北九州の今昔 下巻 郷土出版社 2010年
●北九州思い出の街かど 曳野利米壽記念写真集 曳野利 2018年
●北九州市の昭和 樹林舎 2018年
History of department store of KITAKYUSHU CITY