そごう君臨40年「中興の祖」水島元会長死去

Hiroo_mizushima 2014.08.21
2000年に経営破綻した大手百貨店そごう(現そごう・西武)元会長の水島広雄(みずしま・ひろお)氏が7月28日、心不全のため、東京都内の病院で亡くなった。
102歳だった。告別式は近親者のみで行った。喪主はおい、有一氏。そごう・西武は、社葬やお別れの会は行わない。
水島氏は1936年に中央大法学部を卒業し、日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)に入行。58年、そごう副社長に転じ、62年から社長、94年から会長を務めた。経営責任を問われ、破綻直前の00年4月に辞任するまで40年近くトップの座に君臨した。
この間、大阪と神戸、東京の3店だった老舗百貨店を、国内外40店舗を運営する百貨店グループに成長させた。売上高で百貨店トップを達成し、「中興の祖」と呼ばれた。

水島広雄さん死去:日本一の百貨店王から転落 波乱の人生
2014.08.21
7月28日に102歳で亡くなった大手百貨店そごう(現そごう・西武)の元社長・会長の水島広雄さんは、独自の手法でそごうを日本最大の百貨店グループに押し上げた異形の経営者だった。バブル崩壊で経営に行き詰まり、差し押さえを逃れるために自らの預金を隠した容疑で逮捕されるなど、波乱の人生を送った。
水島さんは日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)の行員だった1953年に「浮動担保の研究」という論文で法学博士号を取得した。利益を生み、拡大し続ける会社自体を担保の対象とする英米の先端理論を日本に紹介した内容で、後に法制化されたほどだった。
水島さんは58年に興銀を離れ、そごうの副社長に就任。地価が右肩上がりの時代に入ると、そごうのグループ各社が新店に出資し、開店後に膨らんだ新店の土地の含み益を担保に、さらに出店攻勢をかける手法で経営を拡大させた。
そごうトップに38年間君臨し「ワンマン経営者」とも評された。人心掌握術にもたけており、元横浜そごう店長の竹下八郎さんは「各地の店舗に足しげく通い、従業員とのコミュニケーションを大切にしていた。人を思いやる心があり、広い人脈も持っていた」と振り返る。会社経営の傍ら、東洋大や母校の中央大で教壇に立つ学者でもあった。
だが90年代のバブル崩壊によって、経済成長を前提とした拡大路線は行き詰まり、2000年7月に経営破綻。同年11月、破綻後初めて記者会見に応じ「放漫経営ではない」と強気を貫いた。破綻前後に自らの預金を隠したとして強制執行妨害罪に問われ、06年に有罪が確定した。
12年4月には、海部俊樹元首相や塩川正十郎元財務相、鈴木修スズキ会長兼社長らが発起人となった100歳を祝う会に出席。今年4月には、元そごう従業員の親睦会に参加し、元気な姿を見せていた。
葬儀は今月2日、東京都内の斎場で営まれた。出席者によると、喪主を務めたおいの有一さんが「倒産という形で、従業員や世間に多大な迷惑をかけたことを生涯悔やんでいた」と故人の思いを語ったという。

「倒産で迷惑かけた」百貨店の理想最後まで 旧そごう水島会長死去
2014.08.21
水島広雄氏は政官財、法曹界の人脈を駆使し、そごうを売上高日本一に押し上げたが、バブル崩壊でその経営手法は時代の波に合わなくなり、挫折へと転落した。
一方で、多彩な顔を持つ異色経営者でもあった。興銀で働くかたわら、昭和28年に浮動担保の研究で法学博士の学位を取得。法制審議会委員として、5年後には「企業担保法」の法制化に一役買った。
企業への融資には不動産の担保が必要との常識を覆し、売掛債権や企業の成長力、信用力を一括で評価する仕組みで、戦後の産業界の資金調達に新たな道を開き、自ら経営で実践した。
同い年の日野原重明聖路加国際メディカルセンター理事長とは盟友で、聖路加国際病院の再開発や運営にも尽力。日野原氏が29年に予防医療の先駆けで日本初の人間ドックを導入した際の受診第1号だった。
平成24年4月に都内ホテルで開かれた100歳を祝う「百寿の会」には、元財務相の塩川正十郎東洋大総長、鈴木修スズキ会長兼社長ら約250人が駆けつけた。
先月の葬儀で喪主を務めたおいの水島雄一氏はあいさつで「『そごうが倒産という形になり、従業員や世間に多大な迷惑をかけた』と生涯悔やんでいた」と故人の思いを披露した。その一方で「親しまれる地域一番店で豊かな暮らしを実現する」との百貨店経営の理想については「最後まで信念は揺るがなかった」と振り返った。波瀾万丈の人生はバブル経済とその崩壊という日本の戦後経済史の光と影だったに違いない。

そごう水島廣雄元会長 102歳になっても師と慕われていた
2014.08.22
かつて「そごう」(現そごう・西武)を日本一百貨店に育てた水島廣雄氏(元会長)が、7月28日に心不全のため102歳で亡くなっていたことがわかった。
「ダイエー創業者の中内功氏と並んで、“売り上げがすべてを癒す”と信じていた流通経営者の双璧でした」と話すのは、経済誌『月刊BOSS』編集長の関慎夫氏。同氏が波乱に満ちた水島氏の経営者人生を振り返る。
1936年に中央大学法学部を卒業し日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行した水島廣雄氏は、興銀マンとしてサラリーマン生活を送りながら「不動担保の研究」で法学博士号を取得。東洋大学法学部教授を兼務し、担保法の権威としても知られていた。
1958年には縁戚が社長を務めていたそごうに副社長として入社し、1962年に社長に昇格。以降、2000年の経営破綻直前まで、そごうの最高実力者として君臨し続けた。
水島氏が入社した当時のそごうは、大阪、神戸、東京の3店しかない中堅百貨店にすぎなかった。それが社長就任から約30年後の1991年、三越や高島屋などの老舗百貨店を抜いて日本一百貨店に躍り出た。それを支えたのが、思い切った多店舗展開だった。
都心ではなく都下や千葉市、横浜市など東京周辺部駅前一等地に地域一番店を出店、さらには東南アジアを中心に海外にも進出し、一時は国内外合わせ40店舗を誇った。
一つの店をオープンさせると、その土地を担保に銀行から融資を引き出し、次の店を出店する。また各地方自治体は、再開発物件のキーテナントにそごうを誘致、水島氏はそれに応えた。水島氏の攻めの姿勢と時代が一体化したことがそごうの急成長を支えていた。
ところが、日本一になるとほぼ同時にバブルが破裂、百貨店の売り上げは低迷する。そごうも例外ではなく、そうなると、過度の出店が自らの首を絞めていく。結局、2000年7月に2兆円近い負債を抱え民事再生法を申請するまで、そごうは加速しながら坂道を転げ落ちていった。水島氏の経営者人生は幕を閉じた。
ところが、水島氏の戦いはこれでは終わらなかった。古巣であり、しかもそごうの成長を資金面で支えてきた興銀相手に立ち向かったのだ。
そごうが経営破綻すると同時に、興銀は水島氏に対して個人保証の履行を求めた。1996年に錦糸町そごうを出店する際、興銀や日本長期信用銀行(現新生銀行)の融資約200億円に対して水島氏が個人保証をしていたため、それを履行せよと迫ったのだ。
これに対し水島氏は「個人保証契約そのものが、履行を求めないとの条件のもと結ばれたものだ」と全面的に争う姿勢を示した。常識的に考えても、個人が200億円もの債務を弁済できるはずもなく、あくまで経営責任を明確化するために、便宜的に個人保証に応じたもの、というのが水島氏の主張だった。
しかし興銀側は、「そのような条件はなかった」と全面的に否定した。当時、興銀は第一勧業銀行、富士銀行とみずほフィナンシャルグループを結成したばかりだった。二行へのメンツもあり、あくまで正当な個人保証契約だったと言い張るしかなかった。
2001年には、水島氏は興銀に差し押さえられた預金から1億円を引き出したと刑事告発され、逮捕され、刑事被告人にもなった。
この頃の水島氏は、口を開けば興銀の経営陣を罵倒した。そごうの出店に関して、興銀は積極的に融資した。時には水島氏が逡巡するような案件でも、興銀が背中を押したことで出店したようなケースもあった。「一蓮托生の関係だったのに、興銀は自分を裏切った」というのが水島氏の思いだった。
その一方で、「興銀側は担当者も口裏を合わせて条件付だったことを否定するため楽観はしていない」と胸中を吐露していた。そして実際に水島氏の興銀に対する債務は確定し、刑事裁判でも有罪判決が下った。水島氏の全面敗北だった。

口癖は「日本一」・・・旧そごう率いた水島広雄氏
2014.08.22
102歳で亡くなった水島広雄氏は、旧そごう(現そごう・西武)を40年近く率い、売上高で日本一の百貨店へと急成長させた。
その経営手腕は「水島マジック」とも呼ばれたが、バブル崩壊で多額の借金を抱えたまま2000年に破綻。そごうの栄枯盛衰とともに歩んだ人生だった。
水島氏は1958年に日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)からそごうの副社長に転じた。当時のそごうは大阪の老舗百貨店ながら店舗は大阪、神戸、東京の3店のみで不振が続いていた。水島氏は地方や海外に次々と出店し、91年度には百貨店グループとして売上高日本一を達成。社長在任中に店舗数は40店を突破した。
水島氏の口癖は「日本一」「一番」だった。自身もほとんど休みをとらずに働いた。既存店の土地を担保に資金を借り入れ、出店を繰り返した手法は“水島流錬金術”の異名を取った。法学博士の学位も持つ理論派の水島氏に、社内の役員や社員も「水島信者」と言われるほどだった。
しかし、バブル崩壊で経営は暗転。社長辞任を発表した94年4月18日の記者会見では「百貨店経営は薄氷を踏む思いだった」と珍しく弱音を漏らした。担保とした不動産の価格が下落して、ふくらんだ借金が一気に負担となり、そごうは2000年7月に民事再生法を申請し、事実上倒産した。
水島氏は私財の差し押さえを逃れるため預金を引き出したとして強制執行妨害罪に問われ、06年に有罪が確定した。そごうは03年に西武百貨店と経営統合して「ミレニアムリテイリング」となり、06年にはセブン&アイ・ホールディングスの傘下に入った。
社長時代の水島氏は、ストレスがたまると海辺に出かけ、一日中誰とも口をきかずに釣り糸を垂れた。水島氏が率いたそごうの破綻は、百貨店の拡大路線の限界を示したといえ、業界に大きな教訓を残すとともに、その後の百貨店再編の呼び水にもなった。

そごう水島元会長、100歳の祝いに政財界から250人

2012.04.15
百貨店業界のカリスマ経営者だった、そごうの水島広雄・元会長が15日、100歳の誕生日を迎え、都内のホテルで政財界人など約250人が「百寿を祝う会」を開いた。発起人には出身校である中央大学の久野修慈理事長をはじめ海部俊樹・元首相や元財務相で東洋大学総長の塩川正十郎氏、三菱地所の高木丈太郎・元会長、スズキの鈴木修会長兼社長らが名を連ねた。
車いすで会場に現れた水島氏は「百歳はあっという間だった。皆さんに生かされて百歳を迎えることができた」と何度も感謝を述べた。ただ、百貨店経営や過去の裁判などの話題には一切触れなかった。
水島氏は1912年生まれで、民法学者で東洋大学名誉教授などを務める一方、日本興業銀行勤務を経て、そごうの社長・会長を務めた。 2000年7月に日本最大の百貨店だったそごうグループ(現そごう・西武)は、当時では過去最大の1兆8700億円の負債を抱え民事再生法の適用を申請した。水島氏個人に対しても06年、差し押さえを免れるために自分名義の預金を引き出したとする強制執行妨害罪での有罪が確定していた。

「そごう」の拡大路線30年にかげり

1993.07.20

Hiroshimasg  広島市のタウン情報誌が、数年前、市内4つのデパートの人気投票をしたことがある。
「お中元はやっぱり地元の老舗、福屋の包み紙でなくちゃ」
「転勤族の奥様は三越が好き」
といった声を抑えて、総合1位になったのは「そごう」。最大の売り場面積と、一家そろって楽しめることがその理由だった。そごうは、大都市郊外や地方都市に、地域でいちばん大きな店を開いて急成長した。この20年で国内外に新しい店を30も出し、グループの売り上げでデパート日本一になった。
 しかし、その勢いにもブレーキがかかった。水島広雄社長が7月5日の記者懇談会で、すでに着工した店舗以外は、出店を凍結する方針を明らかにしたのだ。95年オープンの広島新館までは予定通りだが、計画段階の東京・錦糸町や大阪・中百舌鳥への出店は、しばらく棚上げされる。

別会社にして各地に進出

 そごうの拡大路線は、業界の常識やぶりの手法だった。会社の形態が、変わっている。大阪に本社のある株式会社そごうが持っている店は、大阪、神戸、東京・有楽町の3つだけ。残る33店舗は、それぞれ別会社に分かれている。その頂点に立つのは、唯一の上場企業であるそごう本体ではなく、「千葉そごう」である。「千葉そごうが持ち株会社で、他の会社がその傘下に入る、という構造になっている」矢野経済研究所研究員の藤原佳代子さんはいう。柏そごうと広島そごうは、屈指の売上高を誇る店だが、千葉そごうが100%出資した子会社だ。その柏と広島は、札幌そごう、横浜そごうの大株主でもある。今年4月、千葉駅前に新装オープンした「千葉そごう」は、千葉そごうの店ではなく、別会社の新千葉そごうだというのだから、なんともややこしい。親・子・孫会社の資本関係が入り乱れるこの仕組みは、拡大路線を進めるためにある。
 まず、自治体の駅前再開発などの情報をいちはやくキャッチすると、新会社をつくり、周辺の土地を安く買う。デパートができれば地価も上がる。それを担保に資金を借りて、次の出店へ・・・・・。
「そごう錬金術」「小売業よりもディベロッパー」
といわれるゆえんである。別会社にすれば、地元に税金が落ちる。「地域密着型」を売り物に、商店街の反対を抑え、自治体に食い込んできた。

興銀から移りカリスマに

Sogoyokohama  しかし、バブル時代はうまく回転しても、消費が冷え込み、銀行が貸し渋り、地価が下がり始めると、行き詰まってくる。巨艦店・拡大路線がきしみ始めたのは一昨年。30店目の川口そごう(埼玉県)開店のころからだ、と業界関係者は指摘する。地元から、初の本格的デパートとして期待をかけられて、床に大理石を張り、ゴージャスなつくりにした。それが重荷になって、営業利益を出せるようになるまで、7、8年かかるという。
 旗艦店をめざす横浜そごうも、開店9年目だが、まだ採算ラインにとどいていない。グループの借入金は1兆円を超えるとみられるが、くわしいことはベールの中だ。水島社長は81歳にもなる。日本興業銀行から、副社長で入社し、62年に社長になってから、拡大路線を30年間ひっぱてきた。グループの頂点にある千葉そごうの株を5割持ち、事実上のオーナーとして君臨する。巨額の借入金について、冗談まじりに「私自身が担保」と語ったこともある。それだけに、カリスマ的な社長が代わればグループが空中分解する、と心配する声もある。

三流老舗百貨店を業界No.1に押し上げた
カリスマ経営者の黄昏〜そごう元会長 水島廣雄〜

“天皇”と呼ばれた男たち 2010.01.15

毀誉褒貶は誰にもある。だが、彼くらい毀誉褒貶の激しい人物は珍しい。人付き合いが苦手な読書家で、法学博士の肩書きを持ち、母校中央大学の教壇に立ったこともある。だが、その傍ら、銀行マンから百貨店の経営者に転じ、悲願の日本一を達成するという手腕も発揮した。かつて、日本最大の百貨店網を誇ったのみならず、アジア各地にも出店を果たした「そごうグループ」。その頂点にあって、長年にわたり支配した男の正体とは?

つわものどもの夢の跡

「晩節を汚した」、「いや、銀行に騙されたのだ」。2000(平成12)年7月に民事再生法の適用を受けて、実質的に倒産に追い込まれたそごう元会長水島廣雄に対する評価は、いまだに定まっていない。
 高度成長期からバブル期を駆け抜け、国内だけで30店あまりの店舗網を構築。老舗ながら三流と見られていた百貨店を日本一に導き、「そごうの天皇」と呼ばれた水島の足跡を辿っていくと、つわものどもの夢の跡といった情景が広がってくる。
 水島は1912(明治45)年に京都府舞鶴市で生まれた。戦前、呉や横須賀と並ぶ軍港の町で育った水島にとって、視力検査で兵役免除になったことが汚点として残り、その後の人生を大きく変えていった。
 15歳のときに両親に見送られて上京。拓殖大学予科を経て、中央大学法学部に入学。成績が優秀で、2年のときには学費が免除される特待生に選ばれ、1936(昭和11)年、英法科を首席で卒業した。後々、法務大臣の稲葉修、最高裁判事の塚本重頼とともに「中大花の11年組」と呼ばれるようになる。
 中大卒業後、日本興業銀行(現・みずほホールディングス)に入り、福島市の東北支店に配属になる。入行の2年後に地元の女性と結婚し、長男をもうけた。だが、この最初の結婚生活は5年で破綻し、終戦の年に陸軍中将の娘、上原静と再婚した。
 当時の水島は人付き合いが苦手で、隙ができると、読書三昧の日々を送っていた。さらに仕事の傍ら、母校の教壇にも立つようになった。
 そして企業活動そのものを資産として認め、担保登記を簡便にする「浮動担保の研究」という論文を完成。41歳で毎日新聞学芸奨励賞を受賞し、併せて、母校から法学博士の学位が授与された。
 法律研究家として頂点を極めた水島は、アカデミックな世界よりも実業の世界に興味があったとみえて、博士号取得の5年後、1958(昭和33)年に興銀を辞め、老舗百貨店のそごうに身を転じた。そこから彼の波瀾万丈の人生が始まる。

そごう社長への転身

 水島とそごうの結び付きには再婚相手の実家が関与している。水島の妻、静の兄がそごうの大株主に名を連ねる板谷家に養子として入り、当時、そごうの社長を務めていたのだ。
 その頃のそごうは、老舗にもかかわらず、大阪と神戸にしか店がなく、三流百貨店の扱いを受けていた。汚名を晴らすべく、1957(昭和32)年に東京・有楽町の読売会館に出店する。
 だが、同業他社の4倍という高い家賃だったために、「有楽町で逢いましょう」というコマーシャルソングこそ流行ったものの、オープン当初から業績悪化に苦しめられていた。
 東京店の業績悪化の責任を取って、静の兄が社長を退任。同時に、板谷家の代表という形で、水島が副社長の肩書きでそごうに送り込まれた。そこで最初に仕事は、家賃の引き下げ交渉だった。
 社長ら役員3人で交渉に当たったのだが、読売のオーナーを努めていた正力松太郎の迫力に押されて、他の2人が脱落。残った水島が、半年がかりで交渉を進め、逗子にある正力の自宅にまで押し掛けて行って「このままだと、そごうが潰れてしまう」と説得。最終的には法学博士の肩書きが威力を発揮して、従来の半分以下の家賃にしてもらうことができたという。
 1960(昭和35)年に社長が死去すると、社内で後継者争いが勃発。主力銀行の大和銀行が、自分のところから派遣した副社長を強引に社長に据えたことに、財界が猛反発。大宅壮一が「財界・松川事件」と評したくらいの泥仕合を展開した。結局、リコーの市村清など、財界大物の支援を得て、2年後に水島が社長に就任することになった。

「千葉そごう」を中核とした水島「そごう支配」の構図とは?

Chibasogo_3_2 「レインボー作戦」開始

 社長就任後の水島は、豪放磊落な反面、礼儀正しく、店内視察のときには社員を「さん」付けで呼ぶほど、腰の低い人物だった。まだ、“天皇”の片鱗すら現れていない。
 それどころか「百貨店と問屋は対等だ」と宣言して、取引先を見下していた百貨店業界の顰蹙を買うありさまだった。だが、この精神が、後々、経営の効率化や多店舗化を図るうえで威力を発揮する。
 水島の名が業界に轟いたのは、1967(昭和42)年の千葉そごうの開店からだ。当時の国鉄千葉駅の建て替えに合わせて、東京・銀座の塚本総業が駅前のオフィスビルを建設。テナントが集まらなかったために、百貨店の誘致を画策。大手百貨店にことごとく断られ、無名に近かったそごうの水島のところに「家賃はタダでもいいから入ってくれ」と頼み込んできた。
 駅前とはいっても、人影もまばらで、売り上げの目途すら立たないような物件だった。だが、水島は出店を決意。地元商店が反対運動を繰り広げたが、当時の千葉県知事・友納武人の提案に従って、地元に別会社を設立。東京スタイルなど新規取引先の協力を得て、東京の百貨店に見劣りしない店舗をオープンさせた。
 出店を決意したのは、興銀時代から付き合いがあった財界人の「レインボー作戦」という言葉がヒントになったからだ。
 アメリカの流通業界では、大都市から一定の距離を置いて虹のように出店すれば失敗しないといわれている。その伝でいけば、千葉県と神奈川県を結ぶ国道16号沿いに出店すればうまくいくのではないか。レインボー作戦の第1弾として千葉そごうをオープンさせ、と同時に「ダブルそごう」作戦を打ち出した。
 その頃から水島のカリスマ性が社内外に響きわたるようになる。以来、駅前立地、地域一番店、地元密着の別法人といった出店の方程式を確立。1979年に10店、1987年に20店の店舗網を構築。「トリプルそごう」作戦を達成した翌年、1992(平成4)年には悲願の売り上げ日本一を実現した。

「裸の王様」であることに気づいていなかった「水島天皇」

Narasogo_4 長屋王の祟り?

 しかし、水島の出店戦略は、我が国の考古学に重大な影響を及ぼした。張本人は1989(平成元)年に10月にオープンした「奈良そごう」だ。
 敷地面積41,509平方メートル。地上7階建てで、売り場面積が35,000平方メートル。「奈良最大の都市型本格百貨店」という謳い文句でオープンしたものの、民事再生法の申請時に存続店とならず、2000(平成12)年12月に閉鎖。3年後にイトーヨーカドー奈良店として再出発している。
 奈良そごうは、そごうの創業者・十合伊兵衛の出身地ということもあって、グループ各社の中でも豪華絢爛を極めていた。各フロアには大理石や絨毯を敷き詰め、国内外の有名ブランドを誘致。1階フロアの中央には、法隆寺の夢殿を模した「浮夢殿」を設置。博物館法に基づく美術館まで設けられていた。
 「国宝級の文化財まで展示できる」と水島は豪語していたが、奈良そごうの出店の陰で、どれだけの需要な考古学資料が破壊されていったか、その責任には触れていない。
 奈良そごうは、市役所の移転に伴って、市街地再開発の一環として計画された商業施設だ。だが、出店予定地が平城宮の跡地の南側、奈良時代の皇族・長屋王の邸宅跡地に該当していたため、考古学関係者の間で「文化財の破壊だ」という声が上がった。事実、建設の過程で「長屋王家木簡」と呼ばれる奈良時代初期の貴重な文字史料が見つかっている。
 にもかかわらず、水島はオープンを強行した。水島専用のエレベーターや“皇居”と呼ばれるVIPルームを設置。藤原一族の謀略によって死に追いつめられた長屋王の気持ちを慮ることもなく、王侯貴族の生活を満喫していた。これでは長屋王も浮かばれないだろう。
 奈良そごうが閉鎖すると、「長屋王の祟り」といった言葉がまことしやかに流布されたという。
 このような強引な経営手腕、そして政財界のみならず、フィクサーと呼ばれる裏社会にまで通じる顔の広さが水島にはあった。社内外の人間は水島の人脈の広さに度肝を抜かれたという。
 だが、これらの要素が、水島のカリスマ性を増幅させ、彼の周りで苦言を呈すると遠ざけられる風潮が社内に定着し、水島は“天皇”と呼ばれながら、徐々に裸の王様になっていった。

Ukiyumedono「警視総監に会わせろ!」

 水島は、自分が裸の王様であることに気づいていたのか。恐らく気づいていないだろう。
 バブル崩壊後の1994(平成6)年、そごうが銀行の管理下で再出発を図るために、水島が会長に退かざるを得なかったときでさえ、人事権を手放さなかったといわれている。水島の“天皇”たるゆえんだが、その後も不動産バブルの再来を信じていたと聞くと、流通革命の覇者と讃えられたダイエーの創業者、故・中内功の晩年の姿と重なり合って、“天皇”の妄執といった言葉しか浮かんでこない。
 「水島そごう」は、出店規制の網の目をかいくぐりながら規模の拡大を図ってきた。いいかえれば、不動産バブルの申し子だ。
 新規出店に当たって、別働隊の組織が出店予定地の地上げを推進。地元に会社が設立されると、千葉そごうをはじめ、グループ企業が信用保証を行って融資を実行。新店がオープンすると、地価の上昇で、数年で累損を一掃。グループ企業の不動産を担保に、次の出店を計画し、事業の拡大を図ってきた。
 だが、不動産バブルを前提にしたビジネスモデルはバブル崩壊とともに通用しなくなった。にもかかわらず、拡大路線を推し進めた結果、水島そごうは自主再建の道を断念し、最初に述べたように、民事再生法の適用を申し出て事実上の倒産に追い込まれてしまった。
 負債総額1兆8,700億円。戦後6番目の大型倒産であった。
 民事再生法の適用申請を行う3か月前に、水島はそごうグループの全役職を辞任。自分が持っていた千葉そごうの51%の株式を会社に譲渡している。そこまでは潔かったが、民事再生法が適用されると、「自分は銀行に騙された」と主張して、メインバンクの興銀や準メインバンクの長銀(現・新生銀行)を相手取って株返還訴訟を行い、金融機関に対する怨嗟の声を上げ始めた。
 しかし、2001(平成13)年5月、1億5,500万円に及ぶ預金引き出しや義理の弟に対する土地譲渡が資産隠しに当たると見做されて、強制執行妨害罪で逮捕されてしまった。逮捕時に「君たちじゃ話にならん。警視総監に会わせろ」と叫んだというが、それこそ裸の王様になってしまった水島の最後の虚勢だったのではなかろうか。

企業研究そごう 出店手法

1991.10.15

人も 金も地元密着、再開発事業に強さ発揮。

Kawaguchisogo_1_3  川口そごうが十六日オープン、そごうの店舗が内外合わせて三十店になる。二十店舗目が開業してから、わずか四年。スーパー顔負けのスピード出店だ。しかも五十店をめざして今も走り続けている。その原動力は徹底した地元密着の姿勢と持ち前の政治力、情報収集力でいち早く有利な立地条件を確保、その一方、店舗運営は問屋に全面依存するという「デベロッパー型経営」にある。だが、内需拡大の波に乗って成功したかに見えるその独特の経営に、死角はないのだろうか。

 「お客様からいただく売上金は一円も東京、大阪には持って帰りません。すべて川口市に還元します」。川口そごう開店に先立つ 七日の竣工披露パーティーで、水島広雄社長はこうあいさつした。
 水島社長は過去十数年、どこに出店する場合も同じ文句を繰り返している。「川口市」の部分が違うだけだ。店舗ごとに地域法人をつくるそごうにとって、「地元への利益還元」は最大のセールスポイント。この“殺し文句”が、多店舗化の原動力になっている。
 もちろん、高島屋、東急百貨店などが地域法人の形で出店した例はある。しかし、高島屋が昨年九月に関東高島屋を 吸収合併したように、地域法人の店舗は単独で利益を生むようになった段階で、本体に組み入れられ、支店になるケースが一般的だ。
 その点、そごうは六七年に開店した地域法人第一号の千葉そごう以来、本体に組み込んだ例がひとつもない。「あくまで地域の企業として頑張ってもらう」(水島社長)という地元密着主義は、周辺商店街にとっても「説得力を 持つ」(白崎八郎川口市商店街連合会会長)と言わせるほどだ。
 そごうの地元密着は、おカネの還元に限らない。
 例えば、長屋王邸宅跡などの出土で話題になった奈良そごう(八九年十月 開店)。建設用地は平城京の中心部で、店舗建設に伴い奈良国立文化財研究所が実施した発掘調査の結果、六万五千点に上る木簡が見つかった。こうした場合、 発掘にかかる費用は建設面積分のみ地権者が負担し、周囲の敷地は地権者と発掘する当事者が協議のうえ分担するのが通例。
 だが、そごうは約四億円に及ぶ発掘費用を全面的に負担。さらに、法隆寺夢殿の約二分の一の「浮夢殿」を一階の吹き抜けに設けるなど、地元への気遣いを見せた。
 地域へ溶け込むうえで見逃せないのが、店長の役割。その大半が地元財界、行政などとの対外折衝で、「店内を見る時間がほとんどない」(そごうのある店長)という。店づくりは店次長にほぼ任せて、みずからは 会合やパーティーなどに飛び回る。八五年九月の横浜そごう出店に 際しては、当初の資本金一億円が「ほとんど地元関係者との懇談費用に消えた」(ある地元財界人)と言われる。
 また、そごうでは地域法人にいったん店長として赴任すると、定年まで務めるのが原則。他の大手百貨店の店長が三年程度で かわるのとは対照的に、文字通り骨を埋める。こうして地元経済界の顔となり、「地域での企業基盤を強固なものにしていく」(水島社長)のがそごうの戦略だ。
 こうした実績を背景に、そごうの下には全国から出店情報が次々に舞い込んでくる。とりわけ、自治体主体の都市再開発情報には圧倒的な強みを見せている。
 「そごうは とかく“前例”を重くみる自治体の特性を、よく心得ていた。各地で実績を積み重ね、再開発に強いそごうというイメージを完全に定着させたのが大きな強み」とある百貨店の店舗開発担当者は指摘する。

そごうの出店戦略

1991.05.04

そごう再開発事業に乗る、子会社通し地域に還元

Yokohamasogo  そごうグループの悲願、「トリプルそごう」が目前に迫っている。記念すべきグループ三十店舗目は、今年十月に開業する川口そごう(埼玉県)。八八年に二十一店舗目の豊田そごう(愛知 県)がオープンしてから、わずか三年で十店の出店というハイペースだ。
 だが、同グループに とって、トリプルは“通過点”にすぎない。「これからは四十、五十を目指す」(水島広雄社長)と、出店意欲は衰えるところを知らない。
 「駅前などの一等地に地域最大規模の店を出す」。そごうの出店戦略は明快だ。本格的に多店舗化に乗り出した六七年の千葉そごう以来、一部の例外を除いてこの原則を貫いている。一等地を確保するため、最近は市街地再開発事業に乗って出店するケースがほとんど。「再開発案件には 必ずといっていいほど、そごうがアプローチしている」と大手百貨店の開発担当者は打ち明ける。
  こうした再開発事業でのコンペに競り勝ってきたのは、地域子会社方式での出店を採用しているのが大きい。地域子会社に地元資本を組み入れることで、地域密着の姿勢をアピールできるうえ、支店だと地元には落ちない利益が、出店先に本社を置く別会社だと地域に還元ができるのもセールスポイ ントだ。「MD(商品政策)面ではごく平凡」(大手百貨店役員)と言われるそごうが、各地で出店を有利に進めてこれたのも、このためだ。
 川口そごう以 降も出店計画は目白押し。来年は三月に茂原(千葉県)、四月に福山(広島県)、六月に柚木(東京・八王子)の各店がそれぞれオープンする予定。このほか、小倉(福岡)、高松などにも出店準備を進めており、現在、出店候補は計十一店に上る。
 既存店の増床も忘れてはいない。そごうグループで最大規模の売り場(六万八千平方メートル)を持つ横浜そごうを、さらに三万二千平方メートル増床し、国内最大の十万平方メートルにする計画だ。
 また札幌、徳島、広島・呉などの店も増床を予定している。大規模小売店舗法(大店法)の規制緩和に対応して店舗の大型化を目指す三越など大手他社に対抗、「あくまで地域最大規模を堅持していく」(水島社長)構えだ。
 そごうグループがいま抱える大きな課題は、東京店の活性化だ。同店は東京・有楽町と立地に恵まれながら、売り場面積が一万四千平方メートルと狭いこともあり、周辺の銀座地区各百貨店に顧客を奪われている。しかも、この三月の都庁の移転により、「有力顧客だった都庁職員が大幅に減った」(同店)ことが拍車をかけ、売り上げが伸び悩んでいる。
 このため丸の内、銀座に勤めるビジネスマン、OLにターゲットを変更。一階から四階までのリニューアルを実施、コムサ・デ・モードなど有力ブランドも導入した。八月までに、 地下の食料品売り場も一新する計画だ。
 しかし横浜そごう、千葉そごうなど首都圏にある同グループの大型店舗と比べると、東京店の力不足は否めない。三方を道路に囲まれ、増床も 難しい。関東地区での企業イメージ向上の面からも、「東京に大きな店をつくりたい」(東京経営計画室)との思いが同グループ内で強まっている。
  「まだ具体的な計画はない」(同計画室)が、「情報収集力には自信がある」(山田恭一副社長)そごうだけに、東京への本格進出には目が離せない。
 もうひとつの課題は、ストアアイデンティティーの強化だ。そごうの店舗は売り場は広いが、アパレルなどからの派遣店員が比較的多いこともあって、個性に乏しい。
 今年二月に西鉄福岡駅再開発ビルへの出店競争で三越に敗れたのも、「三越の ミュージアム型百貨店に対し、そごうには対抗する店舗コンセプトがなかったのが響いた」(大手百貨店役員)と言われている。
 大型化とともに、そごうならではの特色をどうやって店舗で打ち出していくかが、“トリプル以降”の成否のカギを握っている。

そごう 全貌がつかめない巨額のグループ債務

1999.08.03

 危機的な財務状況が伝えられるそごう。水面から顔を出した負債額は氷山の一角にすぎない。どこに、どれだけの債務を抱えているのか――。

年商を上回るグループへの巨額貸付金

Osaka_1   「当社は、そごうグループ会社等に対し、二五〇三億三九〇〇万円の貸付金を有するほか、借入金等に対 する三八九五億九四〇〇万円の債務保証(保証予約を含む)を行っている。これらの会社等のうちには、現在債務超過の状態にあるものもあるが、そごうグループ全体の平成九年度(一九九七年度)を初年度とする四ヵ年の総合再建計画に基づき相互協調支援を行い、当社からも積極的に業績向上のための経営指導や金利支援等を行っている。――中略――経済環境が悪化している中で債権評価に関する基準の厳格化の動向 に鑑み、当期において二五八億円の貸し倒れ損失を計上した」
 これは、株式会社そごうの、九九年二月期決算有価証券報告書に記載された追加情報の一部である。そごうは、わが国最大の店舗数を誇 る百貨店そごうグループの中で唯一、株式上場を果たしている。太田昭和監査法人は、グループに対する 貸付金について二割以上の貸し倒れ引当金を計上することを、そごうに対して要求してきたが、話し合いの末、一割の引き当てで計上することで決着した。決算では特別損失二六四億一四〇〇万円を計上し、税引き後三億円の黒字予想から一転、当期損失二五六億七 七〇〇万円の大幅赤字を余儀なくされた。同社の場合には、二〇〇一年二月期決算から導入される新会計基準に基づく連結決算を前に、財務内容の改善は待った なしの状況である。
 監査法人が懸念するまでもなく、年商を超えるグループ会社への巨額の長短貸付金は膨らむ一方。貸付金のうち最も多額の貸付先 は、大阪に所在する関係会社、そごうインターナショナルデベロップメントだ。長期貸付金一一一九億七 〇〇〇万円のほか、同社への保証債務一一三億六九〇〇万円、保証予約五三億七〇〇万円と、貸し付けと保証合計は一二八六億四六〇〇万円に上っている。同社 は、そごうの海外法人に対する投融資を主体に、海外法人から衣料品を中心とする輸入を行っているが、どれだけの売り上げと利益を上げているか、対外的なディスクローズは一切なされていない。
 そごうの出資比率は低いものの、取引等を勘案すれば、同社はそごうの実質支配会社となるはずである。上場会社 の関係会社であり、そごう本体から一〇〇〇億円を超える借り入れがある会社の内容が明らかにされてい ない状況は、不思議としか言いようがない。こうした、貸付金や保証という巨額な数字の中身は、闇の中と言っても過言ではない。

グループの有利子負債は一・四兆円か


 さらに、そごうグループを覆っている深い闇は、過大な有利子負 債だ。そごう単体の有利子負債は九九年二月末で二八一三億四〇〇万円、九八年同期に比べ二・一%増加 している。また、公表ベースのそごうグループ全体の有利子負債は約一兆四五〇〇億円にのぼり、そごうグループの国内売上高合計をはるかに超えている(表)。
 しかも、そごうの抱える負債は、表に現れている金融機関からの借入金だけではない。有価証券報告書に記載されている偶発債 務は、「多摩そごう」への四一九億三七〇〇万円をはじめ、国内外のグループ会社の借入金について、総 額一五八三億七二〇〇万円に上っている。
 海外事業は期間利益こそ確保しているものの多額の累損を抱えているといわれ、大半の保証先は劣悪な財務 内容となっている可能性が高い。その上、開示されている保証予約の二三一二億二三〇〇万円を含めると、保証債務額はなんと三八九五億九五〇〇万円に上る。 グループの有利子負債一兆四五〇〇億円を加えると、グループでは一兆八〇〇〇億円に迫る実質的な債務を抱えている計算となる。
 さらに、そごうグループにささやかれている隠れた債務は、表に現れないグループ間同士の保証債務だ。グループの持ち株会 社としての「千葉そごう」もグループ各社に保証債務を行っており、その額は約二〇〇〇億円に上ってい る。加えて指摘されているのは、グループ各社が絡み合って貸し付けや保証債務を行っているため、グループの複雑な実態がとても把握しきれないという状況で ある。

二〇社が債務超過


 氷河期ともいえる百貨店業界の中にあって「そごうグループ」は、存亡の危機に立たされていると言っても過言ではない。
 そごうグループは、大阪心斎橋の大阪店、神戸店、東京有楽町の東京店の三店を構える東証一部上場「そごう」をはじめとして、国内 で二九店舗を展開。店舗の不動産賃貸を行っている「千葉そごう」を持ち株会社とし、北は「札幌そごう」から南は「小倉そごう」まで二七の独立した法人で 構成されている。そして、各社の財務内容といえば、おおよそ二七社中二〇社が、債務超過に転落しているのが現状だ。債務超過については、売り上げ不振によ る業績の悪化はもとより、グループの多くが資本金一億円の「過小資本」であることも原因となっている。
 九九年二月決算発表の席上、二〇〇一年二月末を期限に、取締役の半減、二〇〇〇人の従業員削減や、赤字店舗の業態転換など実施するリストラ策が明らかにされた。グループ全体で111人いる役員を 48人まで減らす一方、希望退職募集などで一万一四〇〇人の従業員を九四〇〇人規模に削減する。そして、グループの有利子負債一兆四五〇〇億円を、資産売 却で圧縮するというものである。
 また、各店舗の見直しについては、そごうの出資比率の低い 「いよてつそごう」「コトデンそごう」を除き、 業績などに応じて「規模縮小店」(八店舗)、「現状維持店」(一〇店舗)、「不採算店」(九店舗)の三つに分類。「不採算店」については閉鎖、売却も視野 に入れて検討を進める計画だ。二年以内に閉鎖する方向で地元自治体と調整に入っている「茂原店」は売り上げの倍以上もの有利子負債を抱え赤字決算が続き債 務超過に転落、一日も早く赤字という出血を止めなくてはならない状況である。しかも、赤字を垂れ流しているのは「茂原店」だけではなく、早急に対応を迫られている店がさらに、八店舗もあるということだ。
 しかし、閉鎖や売却といっても、そう簡単には行かないところに問題の重大性がある。地元の再開 発組合や自治体など行政との調整が絡んでくるためだ。地権者や店舗周辺の整備を行ってきた行政側との対応も必要だ。おいそれと「そごう」にかわる入居企業もすぐ見つかるわけではなく、そごうの店舗の大半が駅前という好立地にあることも退店を難しくしている。
 それだけではない。最大の問題なのが閉鎖にかかるコスト負担だ。設備の廃棄や 借入金に対する債務保証の履行、さらに従業員への退職金や関係者への違約金など、閉店コストは大きな負担だ。九四年に閉鎖した東京・柚木店においても、巨額の閉店コストがかかったと言われており、水島廣雄会長は、それ以来店舗の閉鎖を極端に嫌っているという。事実、柚木そごうに対する長期貸付金や保証履行に伴う求償債権や回収困難な債権が、いまだに約一七七億円残っている。これらの債権については決算書上では引当金を積んではいるものの、今後、検討されている店舗の閉鎖は一朝一夕には進まないのが実情で、身動きがとれない状況だ。
 一方、資産の売却 についても前途は多難だ。とりあえず、東京都内と神戸の社宅二ヵ所を売却、売却益は三五億五〇〇〇万円で二〇〇〇年二月期の特別利益に計上する予定だが、 最大の目玉は大阪店の売却だ。もちろん、売却後はそごうが賃借するリースバック方式だが、山田恭一社長は「これまでの百貨店の形態を残すのか、専門店形式にするかは検討課題」と発言している。そごうは、 立地条件から見ても三五〇億円以上での売却を望んでいるが、売却金がすべて借入金圧縮に結びつくかどうかが問題となる。膨大な有利子負債の削減はどこまで 進むのか。いずれにしても、表面に現れている以上の重荷を背負ったそごうグループが、危機から脱出す るには、とてつもなく高い壁を乗り越える必要がある。

新社長登場 山田恭一氏[そごう]

Yamada

日経ビジネス 1999.08.23

土壇場での登板、再建は待ったなし

 「『おめでとう』より『ご苦労さん、大変だな』と言わなければいかんなあ」ー。今年4月の社長就任時、山田氏は友人たちにこう言葉をかけられたという。それもそのはず。国内外合わせて1兆1000億円に及ぶ売上高を誇るそごうは今、存亡の危機に立たされているのだ。金融機関からの借入金は売り上げを大きく上回る1兆7000億円。肝心の本業も不況下で低迷し続けており、1997年度に立てた4年で借入金を1000億円圧縮するという計画は、達成が極めて困難だ。
 さらなる心配もある。メーンバンクの1つである日本長期信用銀行の今後の行方だ。特別公的管理(一時国有化)されている長銀の譲渡先の意向次第では、整理回収機構に回されないとも限らない。負の遺産の処理には一刻の猶予もないのだ。
 水島廣雄会長の下で長年、経営の一端を担ってきた上に、71歳という高齢もあって、山田氏の社長就任に疑問符をつける声もある。その点は山田氏本人も「自分にも責任があるし、年齢的に引退する時期を過ぎている」と認める。しかし「この厳しい時期に、社長としてカジ取りのできる人材が社内では見つからない。人材育成を怠ってきたのは我々の責任だが、誰かが泥をかぶって再建を軌道に乗せなければならない時に、逃げ出すわけにはいかない」と不退転の決意を見せる。
 その一方で、全国の店舗を精力的に回り、従業員を励ましながら努めて笑顔を見せる。「会社全体の雰囲気は落ち込みがちだが、百貨店が明るさを失ってはいけない。危機感を持ちながら、元気に仕事をしようとハッパを掛けている」。山田氏をよく知る電通の成田豊社長は「いつも明るく、相手の立場を気遣う人だが、その半面、意志が強く、行動力もある。今そごうの社長を務められるのはこの人をおいていないのではないか」と強調する。
 その意志の強さと行動力は、阪神大震災で半壊した神戸店の再建でも発揮された。復興本部長を務めた山田氏は水島会長の「全権一任」の言質を取り、自ら金融機関や役所などを駆け回った。そして、1年半以上かかると言われた全館営業を1年で成し遂げた。
 山田氏は京都大学農学部を卒業後、人事・労務畑を20年以上も歩んできた百貨店のトップとしては異色の経歴の持ち主だ。人事関連の本を執筆するなど社内きっての論客でもある。そんな山田氏にかかる期待は大きいが、それには同氏が「偉大な存在」と公言する水島会長がとってきた政策を、あえて否定することも必要だ。「そごうに命をかけてきた男」(電通の成田社長)である山田氏が、「2年後にはグループ全店で単年度経常黒字」という目標を実現できるのか。道は厳しいが、後戻りはもはや許されない。

そごうに史上最高額の借金棒引き要請をさせた男
“怪物”水島会長の虚と実

Yamadaabe 日経ビジネス 2000.04.17

 4月6日午後5時すぎ。東京・丸の内の東京会館は緊張した雰囲気に包まれていた。そごうの緊急会見に駆けつけた記者の前で、社長の山田恭一は用意した原稿を棒読みするように、こう言った。
 「6390億円を、まことに遺憾ながら金融機関の皆様に、免除のお願いをさせていただく予定でございます」
 メーンバンクの日本興業銀行や日本長期信用銀行など、取引銀行73行に対する史上最高額の“借金棒引き”要請――。これまで経営難が囁かれるたびに否定してきたそごうが、ついに白旗を上げた瞬間だった。そして、病巣は予想以上に拡大していた。
 山田の「どうも申し訳ございません」という言葉に合わせて、4人の代表取締役が立ち上がり、深々と頭を下げた。だが、その中にそごうを率いて膨張と転落を演じた主役の姿はなかった。
 水島廣雄、88歳。1962年の社長就任以来、40年近くそごうに君臨した。彼がトップの座に就いた時、そごうは売上高数百億円の弱小デパートだった。それを、最盛期にはグループ売上高を1兆2000億円まで伸ばして、「日本一の百貨店」の栄冠をつかんだ。だが、一方で借金を1兆7000億円まで膨らませ、今回の巨額の債務免除要請の元凶となった男でもある。

いまだに強い影響力を持つ怪物


 質疑応答が始まると、何度となく繰り返された水島の経営責任を問う声を、山田をはじめとする経営陣はのらりくらりと曖昧な返答でかわした。
 「水島会長はいつ、責任をとって辞めるのか」
 「グループ各社の残務整理が終わり次第、退任をいたします」
 「残務整理とは何のことか」
 「会長の件につきましては、やはり会長ご自身がしかるべき時にご判断されることですから、私どもが申し上げることはできません」
 会長を気遣い、敬語まで使ってしまうところに、そごう社内における水島の独裁ぶりが透けて見える。まるで会見場までもが、陰で水島に操られているかのような印象を受けた。
 会見終了後、会場を後にする副社長の阿部泰治は、こう言い残してクルマに乗り込んだ。
 「水島廣雄は怪物ですよ」――。
 弱小百貨店から業界トップへ、奇跡のような成長を続けた背景には、水島が作り上げた政官財にまたがる人脈があった。
 妻・静の親族には香川県の代議士、木村武千代がいた。また、興銀勤務時代から開拓した政治家人脈の中には、岸信介、田中角栄、中曽根康弘、福田赳夫といった歴代総理大臣がずらりと並ぶ。母校の中央大学法学部で講師をしていたことから、その教え子たちが官庁や地方自治体で広い官僚人脈を形成した。財界でも、興銀の中山素平をはじめ、野村証券の瀬川美能留、東映の大川博などの大物と親交があった。政財界の黒幕的存在だった児玉誉士夫や小佐野賢治とも懇意だった。
 こうした広く深い人脈を築くことができたのは、水島の性格によるところが大きかったという。
 「人心掌握術にかけては天才的なものがある」(元そごう幹部)。社内でもいまだに水島に心酔する社員が多い。
 急成長しても驕った様子を見せず、腰も低い。部下にも「さん」づけで話し、注意するときは直接言わずに人を介して伝える。大好きな相撲を観戦しないのも、「枡席に座っている社長がテレビに映ってしまったら、社員がどう感じるか」と案ずるからだという。カネを貸しても、自分から返済を迫らない。「カネを借りる人は、苦しくて困っている」と、じっと我慢する。
 こうした姿勢が、社内に「水島教団」とも言える独特の雰囲気を作りだした。冒頭の会見のように、はたからは異様に聞こえる水島擁護の発言が出てくるのも、こうした背景があるからだ。
 社内ばかりではない。アパレル大手の東京スタイル社長、高野義雄は、「そごうに万一のことがあって損失を被っても、恨むようなことはない」と言い切る。
 高野も水島に惚れ込んでいる1人なのだ。75年のこと。株式公開を控えて増資を目論む高野は、取引先に引き受けを頼んで回った。「値段が高い」と渋る百貨店トップもいる中で、水島は開口一番、こう言った。
 「君が社長なら会社は必ず成長する。いくらでも引き受けますよ」
 この時の感動は、高野の脳裏に深く焼き付いている。その後も、高野の父親が亡くなった時、水島は部下を引き連れて甲府での葬儀に参列した。
 そごうと水島は崖っぷちに立たされている。だが、彼を守ろうとする社内外の信奉者たちはいまだに数多くいる。
 この異様な状態こそ、そごうを急成長させた一方で、今日の存亡の危機を招いた真因だと言える。いつしか、水島廣雄と彼の経営は神格化された。そして水島の後をひた走る人々は、ついに引き返せない瀬戸際まで追い込まれてしまった。
 水島の軌跡を、彼が固く口を閉ざす前半生から辿っていくと、そごうの栄光と挫折の原点が見えてくる。

興銀マンと法学博士の2つの顔


Mizushima_2  京都の北端にある日本海に面した漁村、成生。舞鶴の中心街から車で1時間近く走ると、道路は行き止まりになる。そして波打ち際からわずか数mのところに、20余りの家屋が肩を寄せ合うように建っている。明治45(1912)年、水島はこの漁村に生まれた。今でもその生家は残っていた。
 水島の実家は、「裕福な網元」と言われてきた。だが、生家に住む弟の忠雄は、首を横に振ってこう話す。
 「見ての通り、この村の人は、みな半農半漁の生活です。漁業だって協同組合方式です。なぜ網元と言われているかって? その方が銀行から信用されるからじゃないですか」
 15歳の雪の降る早朝のこと。水島は両親に見送られて、東京へと旅立った。拓殖大学の予科に入学し、法律の勉強に打ち込む。夏休みに実家に戻ると、土蔵にこもって六法全書を暗記するまで読み込んだ。そして、中央大学法学部に合格する。学業が飛び抜けて優秀だった水島は、2年の時に特待生になり、卒業時には英法科の首席だった。学者としての道もあったが、興銀に入行している。
 「国富ということを真剣に考える人だったから、興銀を選んだのではないか」。中央大学で水島の講義を受け、その後に法学者となった駒沢大学教授の関口雅夫は、こう話す。当時から、興銀は日本の産業育成を担う金融機関だった。豊かな国、豊かな生活への憧れを持つ水島は、躊躇なく大学へ残る道を捨てたという。
 この選択について、弟の忠雄はこんなエピソードを語った。
 「兄は海軍に入ることが夢だった。だけど、視力検査でひっかかって兵役免除になってしまった」。この挫折がコンプレックスとなって、国富を追い求めることを自らに課せられた使命だと考えるようになったのではないか、と見ている。
 第2次大戦後、水島は焼け野原になった東京をいかに復興するか、思いを巡らせていた。興銀で融資課長、中小工業部次長などを歴任した水島は、担保登記を簡便にすることを目指した。興銀マンとして働くかたわらで、母校で法律の教壇にも立った。53年に「浮動担保の研究」という学位論文を完成させた。毎日新聞学術奨励賞にも輝いたこの論文を基に、5年後には「企業担保法」が法制化される。
 この「法学博士・水島廣雄」というもう1つの顔は、彼の実像を複雑で分かりにくいものにしていた。論理的、合理的な思考を求められる学者と、情の深い経営者は、あまりに対極にあるように見られたからだ。
 「世間では水島廣雄は2人いる、と言われていた。まさか同一人物だとは考えられなかったのでしょう」と東洋大学教授の浅野裕司は振り返る。
 しかし、法律家としての取り組みは、彼の経営哲学を違う世界で実践していただけのことだと言える。
 企業担保法は、無担保社債が出せなかった時代に、企業の資金調達を支えた。大手企業はこぞってこの法律を活用し、戦後の復興と高度経済成長を実現していった。国富を思う水島の努力が、見事に結実した事例だと言える。

法と制度の盲点をつき急成長


 法律と制度を熟知していた水島は、そごうの経営者としてもその異才を発揮した。金融制度をはじめとした日本の経済体制は、欧米から大きく遅れた前近代的な状態にあった。これを逆手にとって急成長していったのだ。
 そごうに転職したのは、妻・静がオーナー一族である板谷家につながる家系だったことがきっかけだった。58年、東京・有楽町店の失敗などで赤字に転落し、社長だった板谷宮吉が引責辞任する。その時、一族代表として副社長に就任したのが水島だった。
 62年に水島はそごう社長の座を手に入れ、5年後に千葉そごうを開店させた。この時、水島は別会社を作って、新店を立ち上げている。このやり方について、「もし失敗しても、そごう本体に影響が及ばないように考えた」と語っている。
 だが、結果的に千葉そごうが成功を収めると、別会社方式による出店は戦略性を帯びてくる。まず、出店候補地や周辺の土地を、秘密裏に様々な会社名義で購入する。そして、そごう本体や千葉そごうなどの基幹会社が出資して、経営母体となる会社を設立する。いざ、出店となると、グループ各社が債務保証して、新会社に低利で巨額な資金を調達できるように支援する。
 出店構想が明らかになると、もともと買い取っていた土地の価格が高騰する。その含み益を新会社に吸収させ、初期投資による累損を一掃させるのだ。開店後、あっという間に黒字の新会社が生まれることになる。そうすると、次はその会社が新規出店の資金調達窓口になっていく。
 こうして千葉そごうなどの基幹会社を中心に、複雑な資本関係を築きながらそごうグループは増殖していった。水島は千葉そごうの株式を約50%保有していることで、実質的にグループのオーナーという立場を保った。
 ここで重要なポイントは、唯一の上場会社であるそごう本体が、グループ会社のほぼすべてを連結対象外にしていることだ。グループ各社が少しずつ出資することで、連結決算の網の目をかいくぐっている。そごう本体の財務リスクを軽減し、さらにグループの全体像を見えにくくしている。日本の金融・会計制度の盲点をつく勝利の方程式を完成させていた。
 こうした出店戦略をさらに強力に推進したのは、ほかでもない水島人脈だった。全国の地方自治体には中央大学における水島門下生の人脈が張り巡らされていた。また、旧国鉄人脈を持っていたことで、JR主要駅の隣接地への出店も少なくなかった。
 グループ10店舗を目指した「グレーターそごう」構想を79年に達成すると、出店ペースは加速度的に上がっていった。その後は20店舗の「ダブルそごう」を87年、30店舗の「トリプルそごう」を91年に実現している。それも、「地域一番店」という地元最大級の店舗を目指していた。飽くなき規模の追求は、80年代後半にはバブル景気の波にも乗って、ピークに達していた。
 急拡大の裏で、そごうは商品構成を問屋任せにする「問屋重視主義」の方針を打ち出した。水島はそごう入社直後、百貨店の仕入れ担当者にペコペコと頭を下げる問屋の社長を見て違和感を覚えた。「問屋さんとうちとはイーブンの関係です。商品知識は問屋さんの方が豊富なのだから、お任せします」。この言葉に、問屋の社長や担当者は胸を打たれたという。
 「極めて日本的で、浪花節の経営」。元そごう幹部はこう表現した。日本の制度や文化の特殊性を熟知し、家族的で情の経営を貫いた水島廣雄。だが、時代は着実に動いていた。
 水島の経営理念が時代とずれてきた最初の出来事は、89年の大店法緩和の議論だった。大規模小売店の出店を抑制する法律の緩和・撤廃は、百貨店経営者にとって願ってもないことだと思われていた。だが、水島はこの流れに異議を唱えた。「無秩序な競争が起きる」として、反対の意見を表明したのだ。政官財の強力な人脈を利用して出店してきたそごうにとって、規制こそが自らの権益を守る防波堤の役割を果たしていたのだ。
 90年代に入り、そごうは日本一という束の間の栄光から、巨額の債権放棄要請という奈落の底まで転げ落ちることになる。この原因を、バブル経済の崩壊と消費低迷に求めることはたやすい。だが、こうした経済情勢は小売業者全体を襲った荒波でもある。そごうの窮状の原因は、水島流経営が変動する経済構造とのミスマッチを起こし、その溝を広く深くしていったことにある。金融・会計制度の世界は、急速に欧米流の公正・透明なものへと変貌を遂げつつある。地価には収益還元法という考え方が浸透し、かつてのような上昇基調は望めなくなっている。
 企業間競争が激化する時代に、そごうはあまりに競争力のない組織になっていた。アパレル大手のワールド社主、畑崎廣敏は「水島さんは北極星のような経営者だった。そごうの進むべき道を明確に示すことができた」と評価する。だが、裏を返せば、トップの大号令のもとに、ひたすら全力疾走する集団になっていたと言える。問屋重視主義は、仕入れノウハウを欠落させた。立地と規模だけを追い求める「考えない組織」は、必然として時代への対応力を欠いていた。

情実経営破綻、錬金術も機能停止


 92年、水島は拡大戦略を見直すと宣言した。だが、水島経営はその後も基本理念は何ら変わっていない。リストラもさして進まなかった。
 「経営はブレーキやギアチェンジ、バックをすることも必要だ。でも、情の深い水島さんは、社員や取引先の血が流れるような決断には、踏み切れなかったのではないか」とマイカル社長の宇都宮浩太郎は分析する。
 94年、そごうはメーンバンク格の興銀と日本長期信用銀行からそれぞれ人材を受け入れ、副社長に据えた。そして水島は会長となり、経営の一線から退いたかに見えた。
 だが、社内では水島独裁が続いていた。
 何度となく巨額の借金による経営難が囁かれたが、水島は「私が担保。私が融資を頼めば、銀行は嫌だとは言えない」と豪語していた。
 そんな水島とそごうが、債権放棄を要請しなければならない屈辱的な状況に追い込まれたのは、皮肉にもそごうの急成長を支えた会計制度の盲点に、光が当てられたからだ。2000年2月期決算で、そごうの監査法人はグループ会社向けの貸し付けや債務保証に1400億円を超える引き当て処理を実施させた。この結果、そごうは1230億円の債務超過に陥った。グループ会社の業績がそごう本体に影響することを遮断していたシステムは、ついに突き崩されることになった。法律と制度の盲点を突いた水島の錬金術は、機能停止に追い込まれた。
 それでも水島は、自らの経営が正しかったと強弁する。債権放棄の実現にも自信を持っている。
 「水島さんは、銀行には大きな貸しがあると考えている」(東洋大学の浅野教授)という。そもそも、そごうの借金は、銀行が押しつけるように貸したカネではないか、というわけだ。興銀時代に法律まで作って銀行を儲けさせたという思いも強いという。
 最後まで情にすがろうとする水島は、効率と合理性に基づいた経済へと急速に変わりつつある中で、孤塁を守っているように見える。
 さらに自らの退任をもはぐらかし、名誉会長や顧問として残るシナリオも考えている。それを聞いた銀行の役員は、あきれ顔でこう言い切った。
 「そんなことが許されるはずがないでしょう。少なくとも会長と社長は辞任してもらうことになります」

水島廣雄 そごう会長 激白 放漫経営していない、債務免除は当然


 確かに今そごうは苦しいですよ。しかし、そごうグループが売上高1兆2000億円に達し、百貨店業界のトップに立ったこともあるのです。今から10年後、いや7〜8年後でしょうか、景気がよくなった時のことを考えてごらんなさい。1兆円の売上高が2〜3%伸びるだけで、200億〜300億円の現金が入ってきます。実際に売上高が2%でも伸びていれば、銀行に頭を下げなくても済みました。
 私は「景気がもう少し回復したら」と言って、そごうを去っていきます。しかし将来、景気が回復して、そごうが芽を吹いた時に、その売上高を可能にしたのは誰なのか、施設は誰が造ったのか、そごうを日本一の百貨店にしたのは誰か、問い直される日が必ず来ますよ。27店舗のうち5店舗は撤退することになりましたが、再び日本一を狙うのは夢ではありません。法人は死せず、なんですから。
 私は、大阪、神戸、東京の3店舗しかなかったそごうを、30年余りで国内だけでも30店にまで増やしました。三越や高島屋は何百年かかって十数店だけしか店舗を構えていません。よその百貨店は雇われ重役ですから、借金してまで店を増やそうとすると社内の反発を受けます。でも借金をしないから売上高は増えません。
 店は行政から頼まれて出したものばかりです。社会のための出店なんです。撤退することになった多摩そごうも、鈴木俊一・元東京都知事が「人口30万人になります」と言うから出店しました。ところが、実際には15万人にとどまっています。放漫経営と言われますが、どの店も理論を立てて出店しました。ただ、時に利あらず、だったというわけです。
 私は、そごうを率いた40年で6000億〜8000億円くらい使いました。それが1兆7000億円の有利子負債にまでなったのは、利息が嵩んで倍になったからです。(今回の債務免除要請は)過去の銀行による貸し出し競争の遺物ですね。私が利息をまけろと言ったことがあるか、要らんと言ったのに借りてくれと言われて、銀行はどれだけの利息を取ったのか、一体そごうの借金を多くしたのは誰だ――。そう考えると、銀行が6390億円まけるのは当たり前です。借金が1兆円を切れば、そごうは再生しますよ。
 国際通貨基金などの国際機関に何千人の専門家がいても、当時誰がバブルが弾けると言っていましたか。地球上の誰もがバブル経済が崩壊するとは思っていませんでした。
 経営は結果がすべてと言います。しかし、一体どこの段階で結果を見るのでしょうか。速水御舟という日本画家がいます。近代日本を代表する天才画家ですが、生前から認められていたわけではありません。亡くなった後に世間は彼の真価を認めました。南方熊楠という民俗学者も、評価されたのは没後のことでした。
 銀行は放漫経営と言うばかりで、そごうが世界的な資産を造ったことを知りません。例えばバルセロナに造ったホテルは、ヨーロッパで1番という評判をいただいていますよ。銀行の人間はそのホテルに行ったこともありません。そごうで開催した「大バチカン展」を通じて、バチカン市国とは、親戚付き合いと言ってもいいほど親しくお付き合いさせていただいています。
 スーパーだけでは消費文化は語れません。ですからそごうが撤退となると地元自治体が銀行にまで陳情に行くわけです。美術館を併設している百貨店はありますが、博物館法で定めた美術館は、今では千葉、横浜、奈良のそごうだけです。その3カ所は、博物館法に定めた美術館ですから重要文化財も展示できるんですよ。
 銀行の債務免除が成立したあと、私の立場がどうなるか、そごうに意思決定能力はありません。銀行が新しい経営陣を選び、その人たちが私を名誉会長にするか、顧問にするか、あるいは無罪放免にするか決めるでしょう。

水島廣雄をこう見る


水島会長とは30年の付き合いだが、とにかく偉い人だ。土地の値下がりさえなければ彼の戦略はすべて当たっていたはず。ただそれを支える人材は彼が偉すぎたために育たなかった。論理的な思考力では流通業の経営者で群を抜く。頭が良すぎたため、常人には考えつかないような複雑な財務スキームを作り上げてしまったともいえるだろう。
──船井幸雄 船井総合研究所会長
水島会長にはパーティーでお会いしただけだが、カリスマ性を感じたし、高度な財務論には米国公認会計士の私も共鳴できる部分が多かった。バブル期には壮大なビジョンや先端的な資金調達法を編み出して高い評価を受けたが、バブル崩壊で評価が一変した。水島会長は日本そのもののように見受けられる。彼の実績を現時点で裁くことができるのか、個人的には疑問を感じる。
──中瀬雅通 三陽商会会長

そごう 土壇場の再建計画の成否
〜拡大路線で借入金は1兆7270億円営業力弱く復活のシナリオ見えず〜

日経ビジネス  1999.11.15

そごうグループが土壇場だ。借入金は1兆7270億円にまで膨らんだ。肝心の業績も不振を極めており、グループ経常収支は赤字に陥った。営業力の弱さ、借入金の多さは水島廣雄会長の拡大戦略に起因する。水島路線を否定し、改善を進めて経常黒字を確保し続けなければ、“そごう消滅の日”さえ避けられない。

日本一の100円ショップが入店


Tamasogo  日本一の100円ショップが百貨店の中に誕生!――。来春にも、こんな宣伝が世間に広まりそうだ。東京・多摩市の百貨店、多摩そごうに、売り場面積3300m2の巨大100円ショップがテナントとして入店するのだ。まだ100円ショップを経営する企業と正式には契約を結んでいないが、現在、最後の調整を進めている段階。同店の5階部分のほとんどを100円ショップが埋め尽くすのは間違いない。
 高級感やブランド力を売り物にする百貨店が100円ショップをテナントとして迎えれば、店のイメージが損なわれる危険性がある。いくら100円ショップが消費者に支持されているとはいえ、百貨店としては本来迎え入れたくないはずだ。だが、そんなこだわりを捨てなければならないほど、多摩そごうは不振にあえいでいるのである。
 多摩そごうは今年で開店10周年を迎えた。だが、業績は極めて厳しい。ある信用情報機関によれば1999年2月期の売上高は230億円。経常収支の赤字幅はグループでもワースト5に入るほど低迷している。一般的に、百貨店は売り場1m2当たりの売上高が最低でも100万円はないときついと言われる。しかし、多摩そごうは「50万円しかない」(東田博・多摩そごう社長)。
 多摩そごうの売り場面積は飲食フロアを含め、約3万4000m2。もともと、鈴木俊一・元東京都知事が打ち出した「人口30万人の大ニュータウンを作る」という構想を前提に設計した。だが、バブル崩壊で目論見ははずれた。人口は現在18万人。「2万m2あれば十分」(東田社長)になってしまった。
 そんな巨艦店内の様子は、寂しい限りだ。この10月のある日曜日の夕方。一般的な百貨店なら客で最も混雑するはずの時間帯だが、売り場は空いていた。買い物に来ていたある中年女性は「客が少なくて、従業員に待ちかまえられているみたい」と話す。一番混雑する地下食料品売り場もそれほど込んではいない。隣に立地するイトーヨーカ堂の盛況ぶりとは対照的だ。
 こうした状況から脱却しようと、多摩そごうは今、店舗構成の見直しを急いでいる。来年3月をめどに地下1階から3階までを自ら手がけ、4、5階を外部に転貸することにした。
 だが、テナント探しは容易ではない。不況でメーカーや卸が出店に慎重なこともあるが、何より「百貨店とはいえ、多摩そごうは集客力が弱く、家賃の割に魅力が少ない」(あるアパレル企業の役員)と見られているからだ。実際、残った4階のテナントのめどは立っていない。6階の飲食店街の空きスペースを埋めようと、ある文化センターに入居を交渉したが拒否されてもいる。
 とはいえ、2001年2月期末の時点に償却前経常利益で黒字を確保することが、取引金融機関への約束であり、実現できなければグループとして多摩そごうの閉店も辞さない構え。改革は待ったなしだ。
 そこで、東田社長が来年度から取ろうとしている窮余の策が、グループの基幹店である横浜そごう(横浜市)による賃借だ。横浜そごうが多摩そごうの4、5階を借り受け、賃借料を払って支援するのだ。
 両店は別法人で、形式上、多摩そごうとしてはテナントを見つけたことになる。実際には、メーカーや問屋に発言力のある横浜そごうがテナントを探す。横浜そごうから見れば2フロアを押しつけられる形だ。横浜そごうの副社長も務める東田・多摩そごう社長は「横浜からの持ち出しは5000万円までにしたい」と打ち明ける。

国内29店舗中13店舗が赤字


 グループで苦しんでいるのは、多摩そごうだけではない。それどころか、グループ全体が“沈みかけた巨艦船”なのだ。
 1999年8月中間期末の金融機関からの借り入れは、国内外を合わせて1兆7270億円と膨大。肝心の業績は国内の29店舗中13店舗が経常赤字で、グループ合計で99年2月期は6億円の経常赤字に陥った。売上高も阪神・淡路大震災で神戸店が倒壊し、打撃を受けた95年度に比べて2000億円も減少、1兆円の大台を切った。今は、3700億円を融資するメーンバンクの日本興業銀行や2100億円を貸し付けている日本長期信用銀行をはじめとする160の取引金融機関に残高維持協力を仰ぎ、金利だけを納めて何とか生き延びている。
 だが、特別公的管理にあった長銀が事実上、米リップルウッド・ホールディングスを中心とする投資組合に譲渡されることが決定。3年間は融資を継続する方針とはいえ、これをきっかけにそごうの取引金融機関の間で動きがある可能性もある。
 そごうがこれほど多数の金融機関と取引があるのは、上場している株式会社そごうの3店(東京、大阪、神戸)以外の店舗を1店舗ごとに別法人化しているからだ。水島廣雄会長が株式の50%を保有する千葉そごうを中心に、株式を複雑に持ち合う形でグループを形成している。それぞれの店舗に、信用金庫や地方銀行など、その地域の金融機関が融資しているのである。それらの金融機関を「興銀のそごう担当者が飛び回って、どうにかこうにか残高維持を続けている」(ある金融機関幹部)。
 膨大な借入金がある上に業績不振が続いているため、各金融機関が融資を引き揚げているという噂が後を絶たないが、「今引き揚げたら、次々に連鎖してあっという間にそごうグループは崩壊する。金融機関同士が牽制し合いながら、そうならないように均衡を保っているのが現状」(同)だ。
 そうした状態を少しでも改善しようと、そごうグループは今、上場している株式会社そごうの山田恭一社長を中心にリストラに取り組んでいる。今春、不振店の業態変更と販売管理費を200億円削減することを柱とした改革案を出したが、取引金融機関に不十分とされた。そこでこの10月、2001年2月期までの新たな再建計画を立案、それに基づいて改革をスタートさせた。
 主な改革内容は、(1)茂原そごう(千葉県茂原市)と加古川そごう別館(兵庫県加古川市)(2)450人の希望退職の実施などによ(5)海外店舗の転貸、売却(6)物流拠点などの売却(7)単品管理の推進と「オンリー・アット・そごう」導入による営業力強化(8)4つの基幹店を軸とした4ブロック制導入による後方業務の効率化とMD機能の強化――などである。

2年間で借入金556億円を削減


Tokyo_3  これらのリストラにより、2001年2月期までに販売管理費を282億円減らす考えだ。人件費は170億円、土地家賃費が78億円削減できるという。同時に、資産売却によって600億円を益出しする方針で、今後2年で556億円の借入金返済を目指している。
 確かに、人員削減や家賃交渉、後方業務の統合化などによるコスト削減は進みそうだ。だが、疑問符を付けざるを得ない改革案も少なくない。
 まず、不採算店の一部転貸や業態見直しについてだ。多摩そごうのケースでも分かる通り、転貸と言ってもそう簡単ではない。集客力の弱い不採算店にテナントはおいそれとは集まらない。ましてや、そごうが望むブランド力のあるテナントは、よほどいい条件を出さなければ入店してもらえない。
 業態転換にしても、専門化を進めるには新たな取引先が必要になる。何より、専門店経営のノウハウが不足している。「丸井のメンズ館や西武百貨店のロフトなどは、一気に成果を出せたわけではない。すぐにああなれると思ったら大間違い」とある百貨店の部長は指摘する。
 「有楽町で会いましょう」のコピーで名を馳せた東京店(東京・有楽町)は、開業後赤字続きなため、業態転換を目指す店に挙げられている。しかし、物件自体は賃貸でその気になれば閉めやすいだけに、百貨店業界やその周辺では閉店するという噂が絶えない。
 不動産を売却後、賃借し直して営業を続けるという大阪店の運営にも不安は残る。大阪店が高く売れれば高く売れるほど、借り戻したときの家賃は高くなる。大阪店は営業力が衰え、現在大幅な経常赤字に陥っている。借り戻して営業したところで、果たして出血を止められるのだろうか。
 そごうの阿部泰治副社長は「今でも大阪店はそごう本部に家賃を納めている。条件は変わらない」と説明する。だが、社内で動いていた家賃が外に出ていってしまうのだ。しかも、店は年々老朽化する。これ以上営業を続けることにどれほどの意味があるのか。
 「そごう発祥の地である大阪は特別な存在。そう簡単に閉められない」と山田社長は言う。それに対して「あの店は売却後、最後に閉店セールをやってそのまま閉める」と断言する取引金融機関の幹部までいる。今後、確実に経常利益を出さなければ、残高維持を続けている金融機関を納得させることはできないだけに、「閉店」がにわかに真実味を帯びてくる。
 営業力強化の柱としている「オンリー・アット・そごう」の導入も、即効性はなさそうだ。メーカーと組み、そごうでしか扱わない商品、またはそごうで先行販売する商品に「オンリー・アット・そごう」の目印を付けて販売するというもので、プライベートブランド(PB)のようにそごうのブランドでなく、あくまでもメーカーのブランド名を残す。「基本的には買い取り」と山田社長は言うが、売れ残れば、タグをはずして返品もできる。
 例えば、オンワード樫山のブランド「五大陸」では、既に「五大陸」の商品だが「オンリー・アット・そごう」の紙製のタグを付けて、展開を始めている。「従来のPBは力もないのに、顧客に押しつけていた。今回は、メーカーのブランドを生かせるので実売率が上がり、最終的な利益率が高まる。しかも、ほかの百貨店では扱えないので、特徴が出せる」と山田社長は期待を寄せる。
 そごうの売上高粗利益率は同業他社に比べて低い。そごうの99年8月中間期の売上高粗利益率は24.1%。高島屋の27.4%、三越の26.3%などに比べると見劣りする。それを少しでも改善しようという策だが、すぐに大きく利益を押し上げるとは考えにくい。
 いくらグループ制の導入で共同仕入れを進めるとはいえ、「オンリー・アット・そごう」の商品と似たような商品はほかの百貨店や専門店にもいくらでもある。しかも、展開するのは、800品番分のみ。ほかの百貨店や特徴ある専門店との違いを出し、消費者を強く引きつけるだけのパワーがあるとは思えない。商品力や営業力を付けようとする試みは重要だが、それは一朝一夕に実現するものではないだけに、見通しが甘いと言わざるを得ない。

「消える日」いつでもおかしくない


Chiba13  一方、来年度から基幹4店(千葉、横浜、神戸、広島)を軸に、グループを4つのブロックに分けて改革に取り組む方法は、これまでは「グループ全体では規模は大きいのに、その特徴を生かし切れていなかった」(そごうの名取正副社長)だけに、改善効果は得られるだろう。既に一部の現場では「配送拠点の統合化で物流コストが大幅に減った」(水島有一・横浜そごう店長)、「この冬のクリスマスや年末年始商戦で販売促進や仕入れを共同化する」(高橋貞夫・そごう神戸店長)といった具体的な実績や動きが出始めている。
 そごうにとって救いなのは、多くの社員が前向きに改善に取り組んでいることだ。希望退職の実施、所得減少など、暗い話題が多い中、店舗を改善しようと懸命だ。高橋神戸店長は「ブロック制の導入でやるべきことが示され、社員の動きが変わった」と言う。
 しかし、そごうグループの最大の問題点は、改善に時間のかかる店舗の営業力が弱いことにある。ある大手アパレルの社長は「横浜や神戸などの基幹店を除けば魅力がない」と指摘する。膨大な借金があるため重要な改装投資も十分にできない。店舗の魅力は日を追うごとに失われ、強いテナントを集めるのは一層困難になる。悪循環だ。
 現場の社員たちが懸命に改善に取り組んで利益をひねり出しても、売り上げが大きく落ちればそれはあっという間に吹き飛ぶ。衣料品や雑貨などの専門店が台頭している今、果たしてそごうグループは対抗していけるのか。
 本来は、赤字で再生の見込みがない店はすぐにでも閉めるのが筋だ。しかし、そう単純にはいかないのがそごうグループ再生の難しさを物語っている。各地の地元金融機関には1店舗だけに融資しているところも多い。店を閉める場合、貸付金を引き揚げなければならないが、店は債務超過で返済資金がない。開店時には、基幹店を中心にグループの別の店が債務保証をしているので、基幹店の業績が悪化する。閉店はグループ全体に影響を及ぼすのだ。
 更に、本業以外に手を出したわけではないだけに、ダイエーやセゾングループのようにそごうには売れる資産もほとんどない。一方で、営業力を早急に向上させる妙策もなく、不採算店の閉鎖もままならない…。「改革のスピードが遅いという指摘があるが、経営陣も、もはやこれ以上はどうすることもできないというのが本音」(ある取引金融機関幹部)なのである。
 「金融機関が債権放棄するしか生き残りの道はない」という声も聞かれる。しかし、よほどの再生プランが描けなければ、各金融機関は債権放棄や金利減免などには応じない。今、そごうグループにできることは毎年、少しずつでも経常収支を黒字にして金利を払い続け、景気が戻り、売り上げが戻るまで何とか持ちこたえるしかないのだ。
 そごうグループは、今期末で5億円、来期は88億円の経常利益を出す計画だが、「これは死守しなければならない」(山田社長)。万一、計画が崩れれば、金融機関の足並みが乱れ、一気に資金の回収に走る可能性もある。そごうの命の砂時計が切れるのが早いのか、それとも景気が盛り上がり、業績が回復するまで持ちこたえられるのか。そごうが消える日はいつ来てもおかしくはない。

経営危機招いた水島会長の舵取り 野放図な出店が致命傷に


 そごうは本業である百貨店に特化してきたにもかかわらず、本業で行き詰まった。そごうの置かれている状況は、本業以外にも手を出して失敗したダイエーやセゾングループよりも厳しいといえる。その原因をたどっていくと、1962年から94年まで実に30年以上もの間、社長として君臨した水島廣雄会長に行き着く。水島氏による野放図な出店が、現在の経営危機を招いたといっても過言ではない。
 水島氏が編み出した“成長の方程式”はこうだ。まず出店に際しては、周辺にあるどの小売店より大きな巨艦店を出す。「都心の狭い土地に小さい店を建てるより、少々不便でも大きな店を建てる方が客は集まる」というのが水島氏の持論だ。水島氏は興銀出身で銀行に顔がきくため、資金調達も思うままだった。店舗周辺の土地を駐車場などの名目で安く取得しておき、そごうの出店で地価が高騰した時点で評価替えする。その結果、店舗の累積損失が一気に消える仕組みだ。百貨店業というより、不動産業といった方が近い。
 水島氏が社長になった当時、そごうは東京、大阪、神戸の3店しかなかった。水島氏は10店を目標にした「グレーターそごう」、30店が目標の「トリプルそごう」などの出店構想を矢継ぎ早に打ち出し、国内外で40店を超える日本最大の百貨店に育て上げた。しかしバブル崩壊以降の消費不況と地価の下落によって、多くの店舗が苦境にあえいでいる。今になってみれば「なぜ、こんなところに出店したのか」「なぜ、これほど大きな店にしてしまったのか」と思わせる店ばかりだ。ある取引銀行の幹部は「多店舗展開の半分は明らかな失敗」と断じる。
 来年1月末に閉館する加古川そごう(兵庫県加古川市)の別館は、そごうの失敗の過程を知るに良い例だ。もともとは91年にジャスコが撤退した後を、加古川そごうが増床という形で引き継いだ。しかし本館から100mも離れていて不便なうえ、周辺の郊外にイトーヨーカ堂、マイカルなどが大型のショッピングセンターを相次いで開業したため、売り上げは低迷。テコ入れのため今年1月には別館をアウトレット(在庫処分)店に転換したが、赤字体質から脱却できなかった。増床そのものが間違っていたと言わざるを得ない。
 増床を決断したのは水島氏だ。加古川そごうの役員会に上がってきた事業計画書には、次のように記されていた。売り場が2万m2から3万m2に拡大するのに伴い、売上高も200億円から300億円に増加、別館は開業3年目に黒字化する――。バブル崩壊前とはいえ、余りに楽観的すぎる数字である。
 巨艦店を志向する水島氏の意向をおもんぱかり、現場が水増しした数字を作っていた様子がうかがえる。また当時は加古川市や地元商店街から「(ジャスコの撤退跡地を)何とかしてほしい」という強い要望が上がっていた。あるそごう関係者は「水島会長は頼まれると断れない性格」と話す。
 しかも加古川店は増床したものの、家具、家庭用品、呉服などを漫然と並べただけで、売り場に魅力が伴わなかった。もともと、そごうは多店舗展開に商品力が追い付かず、品ぞろえから店舗運営まで全面的に問屋に依存する体質が染みついている。ある大手アパレルの社長は「何も考えずに、大ざっぱな売り場を作っている。とにかく埋めればよいという感じだ」と話す。
 各店舗が稼いだわずかばかりの利益も、グループの次の出店のために拠出しなければならない。東京、大阪、神戸の3店を管轄する株式会社そごうは、グループ会社に対し長短合わせて2550億円を貸し付けている。そのあおりを受けて、東京店、大阪店は慢性的な赤字であるにもかかわらず、改装はほとんどしていない。既存店の活性化より新規出店を優先するというのが、水島氏の発想だったといえる。
 値上がり益を見込んでせっせと買った土地は、今では神通力を失ってしまった。まだバブルの余韻が残っていた92年、銀行はそごうに対して土地の売却を提案したが、水島氏は首を縦に振らなかった。本誌92年11月9日号のインタビューで、水島氏は次のように話している。
 「5年ぐらいすれば土地も銀行も息を吹き返すのではと信じています。それに、いま土地を売却したら、取得価格が安いだけに、売却益のほとんどを税金で持っていかれてしまいます」
 言うまでもなく、地価は92年以降も一段と下落した。もし当時、水島氏が土地や株を売却し有利子負債の返済に回していれば、現在のそごうを取り巻く環境はもっと違っていたはずだ。
 同じインタビューで水島氏は「これまで築き上げたそごうの経営方式が良いか悪いかは、やがて歴史が証明することでしょう」と大見得を切った。それから7年。現状を見れば、水島理論の「非」は証明されたも同然だろう。水島氏の何が正しくて、何が間違っていたのかをきちんと評価し、社員に広く知らしめるところからしか、そごうの本当の再建は始まらない。

西武百貨店との合併、銀行再編で現実味が?


 そごうと西武百貨店が合併――。一部の銀行の間で、驚くべきシナリオがささやかれている。常識的に見れば、両社とも経営再建の真っ最中で他社を救済する余裕はない。しかし不振に陥った背景を比べると、1+1が3にも4にもなり得る絶妙の組み合わせであることが分かる。
 そごうはお金を借りて店舗という“箱”は作ったが、そこに入れるべき“商品”がない。どれだけ人件費を削減しても、それ以上の速さで売り上げが落ち込めば、赤字は膨らむ。いわゆる縮小スパイラルに陥る危険を抱えている。
 一方の西武百貨店を中心としたセゾングループは、リゾート開発や金融事業で多額の借金を背負ったものの、本業は堅調だ。99年2月期の西武百貨店は4期連続の増益となった。さらにグループにはクレディセゾン、良品計画、パルコ、音楽・映像ソフトのウェイブ、書籍のリブロ、雑貨のロフトなど優良企業が数多い。
 「セゾングループの経営資源をそごうの店舗に注入すれば、そごうの利益が大幅に伸びる」というのが、合併説の根拠となっている。最近になって西武百貨店は郊外進出に強い意欲を見せており、出店地域がそごうの既存店と重なる可能性も出てきた。しかもセゾンのメーン銀行である第一勧業銀行と、そごうのメーン銀行である日本興業銀行は、来年秋をメドに持ち株会社方式で事業統合する。そごうと西武百貨店の合併で借金返済のペースが早まるのであれば、新銀行にとって、これほど喜ばしいことはない。
 こう見てくると合併もがぜん現実味を帯びてくる。もちろんセゾンの堤清二氏、そごうの水島氏という2人のカリスマが、ともに経営責任をとることが前提だ。

山田恭一・そごう社長に聞く
水島会長の多店舗展開は間違っていない


 問 そごうは土地の値上がりを前提とした多店舗展開によって、多数の不採算店を抱えた。水島会長の責任をどう考えているか。
 答 私は多店舗展開は間違っていなかったと思う。多店舗展開しないで東京、大阪、神戸の3店だけにとどめていたら、従業員は夢を持てない。将来のポストもない。とりわけ多店舗展開していて良かったと切実に感じたのは、阪神・淡路大震災の時だ。神戸店の営業再開には多大な時間とコストがかかった。もし3店だけであれば、そごうは地球から消えていただろう。
 むしろ反省しなければならないのは我々だ。会長が銀行からお金を借りてこられて、店を作られた。会長のお顔があるから、お金がどんどん出てきた。それを受けた店長以下が、いつまでも赤字でいいという感覚でずっと仕事をしてきたことが問題だった。東京店など開業して40年間ずっと赤字だったわけで、なぜ(水島氏が)経営者として指摘しなかったかということもあると思うが、私は物理的に30店を1人で見ることなどできないと思う。
 問 加古川店の別館のように、今になってみると「なぜあんなところに」という店が多い。水島会長は「出店しない」という決断もできたのではないか。
 答 様々な客観情勢のなかで立案した我々の責任だろう。最終的に役員会で決めるわけだから、役員会にすべての責任があると思う。水島氏から「将来バブルが崩壊するから、出店してはいけない」と言われていれば、出店をとりやめていたかもしれない。しかし、バブル崩壊は当時誰も予測していなかった。そこまで経営責任を問われるのであれば、(経営者は)何もできない。加古川の別館の例で言えば、役員会に上がってきた事業計画書は3年で黒字になるとなっていた。
 問 水島会長に正確な情報が伝わっていなかった、つまり“裸の王様”だったということにならないか。
 答 そうかもしれない。しかし事業計画を作った担当者は、達成可能と思っていたのだろう。いずれにしても、事業計画の数値が正しいかどうかをチェックする機関がなかったということは言える。
 問 今回発表した再建計画には、水島会長の意見も反映されているのか。
 答 我々は「こうしたい」という意見を会長に具申する。我々より会長の方がずっと厳しくて、「(閉店は)ここだけか」「考えが甘いのでは」などと言われた。
 問 再建計画は本当に達成できるか。
 答 売上高が横ばいでも利益が出る体質を目指す。バブル期に「大きければよい」と言って、どんどん店舗を大きくした。しかし店舗には適正規模があって、売り場面積を半分にしたから売り上げが半分になるわけではない。逆に言えば、これまで相当大ざっぱなことをしていたわけで、それを今後はどんどん切っていく。更に希望退職者の募集や家賃の値下げなど一連のリストラの効果が、今年度下期から来年度にかけて本格的に出てくる。再建計画は何としても達成するし、達成できる状況にあると考えている。

日本最大の百貨店 そごうの実像1

Nikkei

日経ビジネス 1992.11.09

立地も規模も常識破り地域一番店への執念

「そごうが1991年度グループ売上高で,百貨店日本一に」--。日本一の百貨店は高島屋か三越とばかり思っていた人には,にわかに信じられない事実だろう。それほどそごうの日本一達成は足早に,そして静かにやってきた。
 下のグラフは百貨店主要4社(そごう,高島屋,三越,西武百貨店)の過去5年のグループ売上高を表したものだ。87年度では4番目に位置していたそごうのグループ売上高が大きく伸長,ついに91年度で約1兆4000億円と他社を引き離した。
 82年2月期には3500億円足らずだったグループ売上高は10年間で4倍の急成長を遂げた。「流通の雄」と呼ばれたスーパーを見ても,この10年間ではダイエーグループの売上高が約2.5倍,イトーヨーカ堂グループが約3.6倍だから,「老年期を迎えた」とも評される百貨店業界の中にあって,そごうグループの急成長は驚異的といえる。
 それを支えたのがおう盛な新規出店だ。過去5年間に海外を含め15店を出し,現在35店に達している。同時期の高島屋の出店数3店,三越の4店(小規模店舗を除く)をはるかに上回るペースだ。
 海外では84年に開店したタイそごうを皮切りに,シンガポール,インドネシアなど東南アジアに大型店を重点展開している。日本人観光客の「土産物店」にすぎなかった百貨店の海外進出を革新,百貨店大手の東南アジアでの大型店ブームに火をつけた。

繁華街の外れに巨艦店舗複雑な共同出資で立ち上げ

Iyotetsusogo_2_2 新規出店はすべて別会社の形態をとっている。上場しているそごう本社と各グループ企業の資本関係は薄く,連結決算の対象にもなっていない。しかも新会社は千葉そごうや広島そごうなどグループ企業が中心となって共同出資するため,12ページのような複雑な出資相関図が出来上がる。これでは外部の目に「えたいの知れない企業」と映るのも無理はない。
 水島広雄社長自身,「それぞれの店が自主独立で頑張ることを基本にしているから,グループ全体の売り上げにはこだわっていません」と話す。実態もよくつかめぬまま日本一の座へ駆け上がったそごうの姿は,百貨店業界の中でも“異端児”と呼ぶにふさわしい。
 社員構成を見てもそごうの異端ぶりがうかがえる。そごうの場合,問屋の派遣社員が多く,自社店員の比率が他の百貨店に比べて低い。
 愛媛県松山市では,いよてつそごうと三越松山店が,同規模の店を隣接した場所に構えている。両店に納入している業者によると「そごうは社員1人に派遣社員が2.5人いる。三越は0.6人程度で大きな差がある」という。急ピッチの多店舗化で不足する人材を,外部の力も総動員して補っている。
 常識破りなのは出店ペースや社員構成だけではない。とても一等地とは呼べない,繁華街から外れた場所にそごうは店舗面積3万平方メートル以上の「巨艦店」を作ってしまう。
 例えば,74年に開店した広島そごうは広島市の商業中心地・八丁堀から約1キロメートル離れた基町にある。開店当初は人通りも少なく,初年度売上高は123億円と惨たんたる状況だった。
 売り場面積は1万平方メートル足らずで開店したが,その後増床を重ね,9年後には3万平方メートルを超えた。さらにバスターミナルが店舗の3階に併設されると,市内から人が集まり,状況は一変した。飛躍的に売り上げが伸び,91年度で821億円を記録。そごうの集客力に目を付けて専門店などが周辺に相次いで建ち,現在では八丁堀と並び「そごうタウン」と呼ばれる繁華街を形成している。
 東武百貨店の山中社長はそごうを百貨店を近代化した“ターミナル型百貨店”と評する。「新興住宅地を背景に持つ地域や交通の要所に出店して人を集めている」。ここ10年で住宅地がさらに郊外へ広がり,百貨店の立地条件は変わりつつある。そこへ真っ先に目をつけたのがそごうだった。
 この哲学を水島社長は“漁礁理論”と命名している。漁礁とは,魚を集めるために海底に沈める廃船のこと。「小さい漁礁をつくっても,魚は来やしません。逆に100倍の大きさの漁礁をつくれば,1万倍の魚が集まってくる。百貨店も同じ。都心の狭い土地に建てるよりも,少し不便でも大きな店を建てる方がお客様は集まるのです」(水島社長)。

地元商店街活性化へ5億円一度決めたら必ず出店する底力

Fukuyamasogo_2 もっとも,いくら巨艦店主義を掲げてみても出店できなければ,しょせん「絵に描いたモチ」に過ぎない。そごうの強さは,一度決めたら必ず実現する「政治力」にある。今年4月にオープンした福山そごうはその典型例だ。
 広島県福山市は周辺市町村を含めると商圏人口が80万人とも100万人ともいわれる。百貨店は天満屋福山店の1店しかなかったため,そごうにはぜひとも出店したい地域だった。
 新店の場所は福山駅から西へ400メートル離れた西町にある山陽染工(本社福山市)の工場跡地。周囲には住宅が立ち並び,商店がほとんどない。そこにそごうは売り場面積3万4400平方メートルという中国地方最大の店を出した。
 88年,福山市と商工会議所に出店計画書を提出。福山の商業発展を掲げた商工会議所の支持を受け,そごうは出店に向けて大きく踏み出した。
 ところが,駅前の東地区にある商店街が「そごう進出は死活問題」と一斉に反対。約2年にわたる反対運動の末,最終的に出店を決定づけたのが,そごうによる5億円の基金だった。
 「福山そごうが銀行に5億円を10年間預託,その利子を商店街振興組合連合会が商店街の活性化のために使うかわりに出店には反対しない」という協定が,そごう,小林政夫・商工会議所会頭(現名誉会頭),同副会頭でもある鍋島喜八郎・商振連会長の間で成立,以後,反対運動は沈静化した。
 鍋島副会頭は「昨年は商店街の人間でヨーロッパの主要都市の商業施設を見学してきた。今では反対する人はほとんどいない」と話す。地元の商店主は「もう昔の話だから」と口を閉ざす。
 福山そごう出店で地元が揺れている時,さらに周囲を驚かせたのは,そごうが福山で2店目を出す意向を表明したことである。
 福山駅前にある伏見町の再開発計画が浮上,商業施設のキーテナントをめぐり,そごうをはじめ天満屋,西武百貨店,近鉄百貨店が名乗りをあげた。90年11月,最終的に伏見町市街地再開発準備組合はキーテナントをそごうに決定した。事前商業活動調整協議会で西町への福山1号店の出店が決定して,わずか半年後のことである。
 もっとも伏見町の場合,商店主など地権者が200人以上いるとみられ,「再開発が動き出すのは21世紀」という見方が大勢を占める。「もし伏見町に他社が出店すれば,西町のそごうは致命的な打撃を受ける。他社の進出を阻止するため“生命線”である伏見町を押さえた」とみる関係者もいる。
 確かに300億円以上を投資して完成した福山そごうの豪華な外観から,もう1店舗できるとは考えにくい。しかし,あくまでも地域一番店にこだわるそごうの基本戦略からすれば,当然の防御策といえるかもしれない。

堺市進出も10年越しで実現へ「40店舗達成」はほぼ確実

大阪・堺市の南海電鉄・中百舌鳥(なかもず)駅前への出店をめぐる争いでも,そごうは底力を見せつけた。
 中百舌鳥地区は人口約17万人の泉北ニュータウンを背景に擁し,将来の発展が見込まれるため,大阪府と堺市が「副都心計画」の中心地と位置づけている。82年に「中百舌鳥駅前土地区画整理事業」が認可され,駅前11.3ヘクタールの土地が区画整理の対象となった。
 そごうの井上盛市副社長は「当時の我堂武夫市長から『核店舗として出店してほしい』との要請を受けて,土地の取得を開始した」と言う。しかし,84年に我堂市長が死去,後ろ盾を失う。西武百貨店,阪急百貨店が相次いで名乗りをあげ,そごうの出店は暗礁に乗り上げた。
 87年に地権者で組織する中百舌鳥駅前共同事業準備組合が発足。「組合上層部は西武支持派が多く,そごうを締め出した」と関係者は内幕を語る。88年にはコンペが実施され,結果は阪急,西武,そごうの順となったが,最終的に組合がテナントに決定したのは西武だった。
 出店への執念を燃やすそごうは,その後も地権者から土地の取得を続けて巻き返しに出た。「共同事業でテナント料をもらうか,そごうに土地を売るかをめぐって地権者間で対立が生じた」(関係者)。この混乱に乗じて,そごうは「選考過程に問題があった」と異議を申し立て,結局,91年3月には組合の決定を白紙に戻した。
 組合は今年3月,調整役を堺市に委任。堺市は「テナントが西武に決まった時,組合には地権者の半数しか加入しておらず,地権者であるそごうも参加できなかった。本来は全員で決めるべきだ」との姿勢を打ち出し,調整を再開した。そごうは9月に「中百舌鳥そごう開設準備室」を発足,出店に向けて体制を固めた。
 9月末には西武が景況悪化を理由に辞退し,そごう進出が事実上,決まった。10月には市と地権者との集会でそごうの出店が満場一致で正式に可決された。10年越しの執念がようやく実を結んだ瞬間だった。
 バブル時代に出店攻勢をかけてきたそごうだが,景気後退色が明確になってきた今年6月,水島社長は「現在進行中の店舗は除き,出店をスローダウンする」と内外に宣言した。中百舌鳥店についても,「時期は遅れそうだ」(水島社長)という。
 だが,当面の計画を見る限り,とても出店にブレーキがかかっているとは思えない。来年以降,決まっている店だけでも千葉新店,広島新館,北九州の小倉,香川県・高松など5店以上に上り,40店舗達成はほぼ間違いない。それどころか「50店舗」体制さえそう遠い話ではないようにみえる。

用地取得→巨額借り入れ→出店→含み益で累損一掃
土地神話崩れ,そごう流「錬金術」に陰り

急拡大を続けるそごう--。外からみて大きなナゾは,その資金調達方法だ。次々と大型店を立ち上げるカネをどこから持って来るのか。グループの全容がつかみにくい上に,水島社長のカリスマぶりが喧伝(けんでん)されている。そこから「錬金術」「水島担保」と言われ,金融機関に巨額の融資を認めさせる特別の手法でもあるのではないか,との憶測が生じている。

開店の話が出る前に安値で用地取得グループ挙げ新会社に債務保証

Yokohamasogo_6 「錬金術」の中身を詳しく見てみよう。スタートは用地の取得だ。85年に開業した横浜そごうの場合,69年に「株式会社横浜そごう」を設立した。その前後から,出店に備えて土地を物色し始めている。「同じころに広島や千葉でもダミー会社が用地を取得した。開店の話が表に出る5年前には,土地の買い付けに着手しているようだ」と関係者は指摘する。土地は店舗用,社宅用など可能な限り手当てする。
 「駅裏で人気もなく,海に面した場所に出すと決めた時は,不動産業者から『魚相手に商売するのか』と言われた」(横浜出店にかかわった元そごう社員)。それだけに購入価格は安かった。「千葉の土地は,平均で坪(3.3平方メートル)130万円程度で買ったはず」(そごう役員)。これが錬金術のタネになる。
 用地取得と並行して,グループ各社の出資で新店を運営する新会社を設立する。資本金は1億円程度なので大きな負担にはならない。
 地元との調整を経て,いよいよ出店だ。ここでグループ各社の力が発揮される。上場しているそごう本社や,すでに独り立ちしたグループ企業の債務保証によって,新会社が極力低利で金融機関から借り入れできるようにする。
 再び横浜そごうを例にとる。85年9月,日本一の売り場面積を持つ百貨店(当時)としてオープンしただけに,開店資金は約590億円と,当時としてはケタ外れで,日本興業銀行を中心に23行が協調融資した。信用の裏付けになったのは,そごう本社の債務保証だ。85年2月期には195億円だった横浜そごう向けの債務保証は,翌年には741億円へと膨れ上がった。
 開店後しばらくは初期投資の負担が重く,赤字がたまっていく。資本金が少ないのであっという間に債務超過になる。普通の企業ならば借り増しはできないが,グループの債務保証が付いているし,直接グループ企業から借り入れることもできる。グループ内でも「債務超過が理由で,責められることはまずない」(ある店長)という。
 やがて,地域で一番大きな店は集客力を発揮,それとともに売り上げが伸び,借入金の金利を払っても単年度で利益が出るようになる。この報告を毎月の店長会議で発表するのが,そごうグループの店長にとって最も晴れがましい瞬間だ。
 最近では87年にオープンした大宮そごうが,今期で単年度黒字達成が確実になり,店長は横浜そごうで開かれた店長会議で「全国の店長から盛んな拍手を浴びた」(他店店長)という。 期間損益が黒字に転じ,安定して利益を稼げると判断した段階で,店舗や土地の自社保有にこだわったことが生きてくる。保有する土地などを,時価に評価替えしていく。取得時にはぺんぺん草の生えていた土地も,そごうの出店で地域一の商業地になっており,時価と簿価の差,つまり含み益は膨大になっている。

損益黒字化後に不動産評価替え「300億円程度の累損は消せる」

この含み益をさまざまな方法で生かして,開店以来たまった累積損失を相殺してしまうのだ。不動産の保有会社を合併,資産の再評価を行うなどの手法もとられている模様だが,累損の一掃という狙いは同じ。「仮に累積損失額が200億円から300億円程度のものならば,不動産の評価替えで大体消してしまいます。大宮は来年には消えるでしょう」(水島社長)。昨年末に大宮そごうは,柏そごうの系列とみられる不動産管理会社,エスアンドエム(埼玉県大宮市)を合併した。これは,黒字化を見込み,累損を一掃する準備とみられる。
 グループの債務保証の裏付けと,地価を上げて赤字を吹き飛ばす能力があるからこそ,金融機関も新会社に安心して巨額の貸し付けをする。まさに百貨店と言うよりデベロッパーの手法だ。
 併せて本社などの債務保証が外される。独り立ちできる店になったという証明だ。大宮そごうで見ると,黒字化を機に,前期末で387億円あった本社の債務保証が,この8月中間期にはゼロになった。
 開店から期間損益黒字,累損一掃までは「5~6年が望ましい」(財務担当の中沢幸夫副社長)。税務上,損失は5年間繰り延べできるので,土地の益出しを無税で実施して累損を消せる。また,売却益を出しすぎて課税されないよう,累損に見合う分だけの土地を分筆してから売却するなどの工夫も行う。
 土地を使った節税策は,一見,西武鉄道グループと同じという印象を与える。しかし西武が申告所得を極力抑えようとするのに対し,そごうはそれぞれのグループ会社が利益を計上し,「税金を払って地域に還元するのが最終的な目的」(そごう役員)。実際,千葉,柏などのグループ企業は経常利益を上げ,税金を支払っている。
 累損が消えるとはいえ,これはあくまで帳簿上の操作で,巨額の借入金が消えるわけではない。しかし,金融機関にしてみれば債務超過の会社と,累損ゼロの会社とでは貸付先の評価という点では天と地ほどの差がある。これでこの会社は自前の資金調達力を持ち,新会社への債務保証,資金供給が可能になる。一つのサイクルが完了し,次の拡大再生産が始まるわけだ。
 債務保証ができるまでに育った企業は,本社を別にして「千葉,柏,広島,黒崎,徳島などの各社」(そごう役員)。かつては本社と千葉だけが債務保証をしていたため,両社の保証額はピーク時3000億円前後まで達したが,地方のいくつかの店が育ったので分散できるようになった。
 85年以前に出店したところでは船橋そごうを除き黒字になっている。また,今期中には大宮に加え,呉そごうも黒字化する見通しという。
 仮に出店をそごう本社の支店としてやっていたら,一つの店が立ち上がるまでの損失が,すべて本社の決算に反映してしまう。そごう本体の利益(前期末で当期利益55億6000万円)では,横浜クラスの出店をカバーしきれず,赤字転落となって,資金調達の道が閉ざされる可能性すらある。グループ各社の株式を分散,本体の連結対象から外しているのも,連結決算への悪影響を避けるとともに,新店のリスクを本社と切り離すためだ。
 「最初はそんなやり方では成功しないと業界で随分笑われました。今は全部の百貨店が,そごう方式で別会社でやっている。笑っていた人が,ノウハウを知りたいと頭を下げてきますよ」(水島社長)。

地価下落,冷え込む消費銀行は未利用地の売却要請も

平成景気はそごうの出店方式にとって,またとない追い風になった。金融の超緩和で低コストのカネを借りやすくなり,地価上昇で含みが増えた。さらに消費が過熱し,売り上げも急増。そごうグループはこの間の大量出店をテコに,ついに百貨店売上高日本一の座についた。
 しかし皮肉にも,日本一になったとたん風向きは変わった。銀行は融資に慎重になり,地価は下落し,消費は冷え込んでいる。
 もちろん環境の悪化はそごうに限った話ではない。しかし,そごうの日本一達成の原動力になった新店のいくつかは,建設費が高騰した時期に建てたため,初期投資が膨らんでいる。
 「土地は昔手に入れたものだから助かっている。建築費が予想外に高くなりました。大宮までは5年から6年で期間黒字にできたが,新しい店は期間黒字が出るまで7年から8年になるかな。2,3年遅れそうです」(水島社長)。
 バブル後遺症などで銀行が新規の融資に慎重になっているのも気がかり。そごう本社だけでも長短借入金は前期末で1190億円。グループ全体での借入金は,「海外を含めて1兆円強」(取引金融機関)という。店舗の拡大再生産システムは,裏返せば借入金の拡大再生産にほかならない。
 「記者会見で,時勢がこうだから,仕掛かり品だけは完成して新規出店は一服すると言ったら,そごうは行き詰まりとか報道された。冗談じゃありません」(水島社長)。
 しかし金融機関の見方が徐々に厳しくなっているのは事実だ。ある銀行は「既存店分の借入金は,返済に使える現金収入があるから心配ない。しかしいつ着工するか分からない増床や新店予定地は整理した方が良い」と語る。
 そごうは開店・増床の用地を先行して取得するため,まだ使っていない細切れの土地をかなり所有している。「含み益は軽く1兆円を超える」(取引銀行)というだけに,未利用の土地を売却し,少しでも借入金を減らすように要請しているわけだ。

新規出店の減速,効率化逆風下,拡大から内部固めへ

 そごう流の「錬金術」が限界に来はじめたことは同社が最もよく知っている。土地の含み益が膨らむという前提が崩れ,事業利益で累損を消すしかなくなれば,過大な借入金は重荷になる。
 「行政とか町の有力者とかみんな頼んで来るんです。義理人情もあるけれど,採算主義でいかないと生き残れない。だからそろばんに合わないところはお断りしております」(水島社長)。
 そごうグループの財務内容は,実はこれからさらに苦しくなる。千葉の新店,小倉そごうなど「仕掛かり品」の開店でさらに資金が必要になるためだ。「借入金の額は94年2月期がピーク」(取引銀行)になりそうで,総額は1兆2000億円程度に膨らむ可能性がある。
 「今が一番つらい時。合理化がうまくいき,借入金が減り始めれば,95年2月期から楽になるはず」(取引銀行)。
 厳しい環境に直面し,そごうは新規出店を減速する傍ら,グループを挙げて効率化に取り組み始めている。「特別なものではなく,総利益率の改善,経費の節減,在庫や売掛金を圧縮し資金効率を向上するなど,基本的な点の徹底を図る」(中沢副社長)。
 上のグラフで分かる通り,正社員を多重活用しつつ派遣社員が多い人員構成が効いて,売上高販売管理費比率こそ他社に比べ優れているが,売上高総利益率は平均を割っている。そのほかの指標も水準以上のものはない。日本一の百貨店チェーンを築きながら,仕入れ力の向上などチェーンのメリットを十分に享受しているとはいい難い。
 土地神話は崩壊し,これまでのそごうの手法は通用しなくなってきた。「今回ぼくは水島君を見直したよ。しばらく出店をストップすると言ったからね。進む時は楽,引く時は難しい。水島君はそれを実践した。これは勇気のいることだ」。水島氏の出身母体,興銀の中山素平特別顧問はこう語る。土地を根幹に置いた日本経済の仕組みが変わり始めている時に,それとともに伸びてきたそごうもまた拡大から内部固めへと変わらざるを得ない。

日本最大の百貨店 そごうの実像2

脈打つ「水島イズム」
豪快かつ緻密 法学者の顔も 明治生まれの異能経営者


 巨艦店を中心とした地域ごとの別会社方式でのチェーン拡大,問屋重点主義。そこには元日本興業銀行マンであり,法学者の顔を持つ「水島イズム」が脈打っている。

売上高1兆円突破記念に座布団大のカステラ配る

証言「2~3年前,水島君から突然大きな包みが送られてきた。開けてみたら座布団ほどの大きさのカステラだ。とても家族では食べ切れず,隣近所に配ったよ」(水島氏と興銀同期入社の渡辺淳・日本債券信用銀行顧問)
 地域一番店にかける異常なまでの執念,さらには百貨店の常識を覆すような問屋重点主義--。これまでみてきた,そごうの特質は,過去30年にわたりグループを率いてきた水島氏の個性でもある。
 その一つがこの“座布団カステラ”に象徴される水島そごうの「豪快さ」である。“座布団カステラ”はグループ売上高1兆円突破の記念品。このほか,新しい店舗が開業するたびに,巨大なかわらせんべいを配るという。こうした贈り物は,横浜そごうに代表されるそごうグループの巨艦店主義を容易に連想させるが,同時に水島氏の気風も十分に表している。
 そごうの実像を知るには,水島氏の素顔を知らなければならない。だが,マスコミ嫌いの水島氏だけに,そのプロフィルは興銀出身の百貨店経営者,法学博士として実績を残したというほかは,あまり知られていない。
 水島氏は1912年(明治45年),京都府舞鶴に生まれ,現在80歳。36年に中央大学法学部を卒業して興銀に入行。融資課長,証券部次長,特別調査室付考査役などを経て,58年にそごうへ副社長として転じ,62年から社長を続けている。
 どのような銀行マンだったのか。
 証言「水島君が入行当初配属された福島支店でのこと。法学部出身だからソロバンに慣れていない。そこで,法律も大切だが経済も大切だよと,貸し付けの部署で計算係をさせてみた。ところが,仕事はベテラン女性に任せっきり。なかなか自分でソロバンをはじこうとはしなかった」(興銀時代の上司)
 証言「水島君と話していたら,岸君が,岸君が,と言うから,どの岸だと聞いたら,岸信介君だよと言う。どうせホラを吹いているんだろうと思っていたが,日を追うごとに政財界に人脈を広げていった」(興銀時代の同僚)
 これだけではない。「自信家」「負けん気が強い」「先の先を読める」など,興銀時代の水島氏を知る諸氏から異色の銀行マンという水島像が浮かび上がる。10店計画である「グレーターそごう」から30店の「トリプルそごう」まで矢継ぎ早に積極策を打ち出し,それを実現してきたのは,こうした水島氏の個性が大きく影響している。
 学位論文もとに「企業担保法」社長就任後も教壇に立ち続ける 
 では,水島氏の真骨頂とも言える,資金調達の妙,人脈の広さはどこから生まれたのだろうか。
 水島氏を語るうえで無視できないのは,「法学者・水島広雄」というもうひとつの顔だ。興銀入行後も毎土曜日には母校・中央大学の大学院講師として教鞭(きょうべん)をとり,53年には学位論文「浮動担保(フローティング・チャージ)の研究」で第5回毎日新聞学術奨励賞を受賞。この論文をもとに58年に「企業担保法」が立法化されている。
 そごうに転じてからも水島氏の学究精神は衰えなかった。そごう社長に就任してもなお中央大の教壇に立ち続けたほか,興銀時代に東洋大学法学部の設立に関与したことから教授を70歳の定年まで兼任。現在は学者としては引退の身であり,東洋大名誉教授といった肩書だが,百貨店業界内からはいまだこんな声が聞こえてくる。
 証言「水島さんに面会を申し入れても朝11時前にはアポイントメントを入れてくれない。どうも,毎晩2時か3時まで自宅の机に向かっており,そのため会社に来るのが遅いらしい」(水島氏と親しい山中・東武百貨店社長)
 水島氏によると「朝4時になることもある」という。9時に起床してそれから会社に駆けつけるのが日課である。今も,大学の教科書として使われている学術書の増補版などの執筆に取り組んでいる。
 中央大大学院で水島ゼミ出身の浅野裕司・東洋大法学部長は語る。
 「一つの学位論文をもとに法律が制定されたのは前代未聞のこと。ドイツ法の流れをくむ日本の民法は“一物一権”主義。そこに会社を一つの価値とみなして丸ごと担保を設定する英国法の概念を組み合わせたのが,水島論文です。並の研究ではありませんよ」
 法学者としての実績が,経営にどう反映されているか。法曹界からは「水島先生は自ら作り上げた理論を,そごうの経営で実証している」との声も聞こえてくるが,これに対して水島氏は「あまり関係ないよ」と笑う。そのへんの真偽を水島ゼミ門下生の一人である関口雅夫・駒沢大学法学部教授はこう解説する。
 「信託法には常に“受益者”という概念があります。これが地域一番店を作り,雇用や納税などで地元貢献をうたう経営理念に生かされていると解釈できる。それよりも水島先生は信託法や企業担保法の研究を通じて,企業の借金を知り尽くしたプロフェッショナルとみるのが妥当ではないですか」
 これだけ学問に精を出したのには理由がある。興銀は当時,国立大と私立大出身で給与格差をつけるほどで,「私大出身の水島君は常日ごろから面白く思っていなかったようだ」と当時を知る興銀OBは語る。そうしたこともあって,銀行マンよりも「法学者・水島広雄」に人生の活路を見いだしたとも受け取れる。
 水島氏は興銀時代,栗栖(くるす)赳夫・元総裁に師事したと言われる。栗栖元総裁と言えば,48年に蔵相として昭電疑獄に連座,失脚した人物だが,法学部出身の学究肌だったことから,水島氏をかわいがった。蔵相就任時に,水島氏は大臣秘書に,と声を掛けられたほど。「栗栖さんとの親交を通じ,金丸信,田中角栄,渡辺美智雄ら有力政治家,さらには小佐野賢治といった異色実力者との親交を深めた」と関係者はみる。こうした要人との交遊が,その後のそごう出店で威力を発揮したといわれている。

店舗接収,二度の経営危機…悲劇の百貨店に現れた救世主

証言「水島社長が役員会にみえると雰囲気が一変するんです。この前も,景気後退で売り上げが減って意気消沈気味の役員一同を並べて,そのうち景気も持ち直すから,それまでとにかく頑張ろうと大演説。最後は大爆笑で終わりました」(そごうグループ役員)
 一連の取材でグループ内から,いやというほど聞かされたのが,こうした水島礼賛の声である。経営不振にあえいでいたそごうに,救世主のごとく現れた水島氏。それだけに社内には「水島イズム」がとうとうと流れている。
 そごうの歴史をひもとくと,まさに悲劇の百貨店としか言いようがない。
 もともとは1830年(天保元年)に十合(そごう)家が大阪市内で創業した古着屋。ところが昭和に入って大阪本店の改装で資金調達がままならず,1935年(昭和10年)には北海道小樽市の財閥・板谷家が経営権を握る。
 46年(昭和21年)に大阪店を進駐軍に店舗接収され,それから約6年間,本店を奪われた格好で営業を続けた。ようやく大阪店を取り戻し,東京・有楽町に新店を構えたが,その家賃負担などがたたって57年度下半期決算で赤字転落,再び経営危機に直面した。
 業績不振の責任を取って当時の板谷宮吉社長は58年春に辞任。一族を見渡しても,さしたる後継ぎ候補はおらず,結果,縁戚(えんせき)の水島氏に白羽の矢が立った。水島氏の奥さんである静さんの実兄が板谷家の養子だった関係である。
 証言「これは水島社長宅のお手伝いさんから聞いた話ですが,千葉そごうが開業した67年当時,水島氏は東京都世田谷区の自宅で,朝起きると千葉方面に手を合わせて祈るのが日課だったといいます」(そごうグループ幹部)
 水島氏は当初から,百貨店経営に自信があったわけでもなさそうだ。社長に就任後,人員合理化,能力給を導入したことで知られるが,その背景には「就任した当初は,大阪店に過剰な設備投資をしたり,若手を一斉に管理職に昇進させるなどの大盤振る舞いをして,これがかえって業績不振に拍車を掛けたことが,合理化の決断につながった」(当時を知るそごう社員)という事情がある。

チェーン化,別法人方式の第1弾千葉そごうの成功で経営に自信

Chibasogo 合理化の効果で,収益が回復するとともに,持ち味の強気が台頭,その後,「日本一宣言」を打ち出した。
 水島氏の自信となったのが,チェーン化の第一歩として開業した千葉そごうの成功である。もともとオフィスビルだった建物で,水島氏は経営陣の反対を押し切って66年10月に会社設立,翌年3月には開業にこぎつけた。
 千葉そごうの経営は,従業員にも自信をつけたと言ってよい。「店舗の前は砂利道,こんな所に百貨店ができるのかという不安があった。でも有楽町そごうの社員だけでなく,大阪,神戸の社員も一丸となって千葉そごうの成功のために頑張った」と当時を知る社員は口をそろえる。
 ある面で水島氏は,よほどの強運の持ち主と言える。千葉そごうがチェーン化の第1弾だったのに加え,別法人としたのも,そごう本体の経営に影響させない苦肉の策だった。しかし,これがその後のそごう拡大のモデルになった。
 千葉への出店と並行して,広島や大阪・阿倍野で用地買収を始めており,チェーン拡大の布石を打っていた。広島そごうはそれから7年後の74年の出店であり,大阪・阿倍野はいまだ地元と調整を続けている。そこに水島氏の先見性がある。
 「銀行マン・水島広雄」としての緻密な一面も見逃せない。東京・有楽町店は店舗面積1万3000平方メートルに過ぎず,東京都心部のフラッグシップ店の出店が水島氏のいまだ果たせぬ念願。かつて東京・東池袋のサンシャインシティーへの出店では,東急百貨店,西武百貨店とのし烈な競争を繰り広げた末,一時はそごうの出店が内定した。しかし,JR池袋駅からの地下道計画が白紙になると「集客面で難がある」とみて,さっと出店をあきらめた。昨年秋のJR新宿駅南口の跡地の再開発コンペでも,銀行に対しては協力を頼みながらも,家賃が坪3万円を超えると,「これでは採算はとれない」(水島氏)と断念。急激な多店舗化は,一見無謀のようだが,しっかりソロバンをはじいている。
 水島氏がそごうに転じてまざまざと見せつけられたのは,“百貨店”の利益率の低さである。
 利益率の低さは,返品を前提とした「委託販売」,消費者が商品を購入した時点で,百貨店と問屋間に仕入れ契約が成立する「消化仕入れ」といった百貨店業界ならではの取引慣行によるものだ。このため,問屋は返品リスクを負う代わりに,値付けや仕入れ量の権限を実質的に持ち,社員を派遣するとともに,仕入れ値は高く設定され,結果として,百貨店の利幅は小さくなる。買い取りならば,仕入れ値は小売価格の50%になるところが,アパレルでは65%,食品では75~80%という具合である。
 だが,水島そごうは,チェーン拡大のために,あえて委託販売をとことん利用,店内は派遣社員にゆだねる方法を選んだ。限られたそごう社員の人材をなるべく新規出店の開発に配分するためには,委託販売に頼らざるを得なかったわけである。だからこそ,水島氏は問屋トップに頭を下げ,協力を仰ぎ,問屋重点主義を唱えた。
 そのうえで,別会社方式でそれぞれが土地資産の再評価で累積損失を一掃する「水島マジック」のシステムを築き上げた。
 小売業は店頭での小売り業務こそが本業と言われる。だが,チェーン拡大を進め,企業の成長を望むならば,デベロッパーとしての事業は無視できない。店頭小売りとデベロッパー的事業のバランスがとれてこそ,成長の決め手と言える。
 社内外でそごう経営の不安材料と言われるのは,後継者について明確にしていないことである。これまで何度も水島氏の高齢を意識して社長交代説が流れてきたが,過去30年間,水島体制は不動である。
 だが,水島氏が後継者に経営権を譲ったとしても,そごうの今後が順風満帆というわけではない。銀行サイドからはこんな意見が聞こえてくる。
 証言「バブルがはじけて,水島社長は辞めようにも辞められないだろう。銀行にとって水島社長あってのそごう。あの人以外では,銀行は今までのような対応を続けられない」(ある取引銀行)
 水島社長が引退すれば,そごうの強みと言える「水島担保」はなくなるというわけだ。これまで,日本一の百貨店を目指し,売上高1兆円突破記念として座布団カステラを配りながらも,ここにきて「グループという意識はない。グループ各社の自主独立を尊重する」と水島氏は言う。これは将来に備え,水島氏を中心とするグループ経営から,各地区の核店舗がリーダーシップをとる連邦経営の準備に入ったとも受け取れる。

「50店舗になったら体質を最構築」アイデンティティーの確立が急務

船井幸雄・船井総合研究所会長は「10年間は何もするな。かつて西武鉄道総帥・堤康二郎氏が息子・義明氏に遺言を残したように,水島社長はこう後継者に言い渡すべきではないか」と語る。確かに,50店達成こそしていないものの,売上高で日本最大規模になった今,急激なチェーン拡大は小休止すべき時期かもしれない。
 水島氏自身「50店舗になったら体質を再構築して,経営に磨きをかけたい」と発言したことがある。大きな器は作ったのだから,後に続く者が頑張れ,と言いたげだ。
 水島氏は旧態依然の百貨店産業で独特のチェーン拡大のシステムを築き上げた。それでは後継者たちは,どう経営に磨きをかけるのだろうか。
 山中・東武百貨店社長は「短期間にこれだけの規模に成長しただけに,そごうの百貨店としてのイメージが確立されていない。CI(コーポレートアイデンティティー=企業イメージの統一)を確立することが急務」と指摘する。確かに消費者からみれば,そごうに行けばどんな商品が買えるのかなどのイメージは薄い。
 周囲からことあるたびに指摘されるのは,百貨店主導で仕入れから価格を決定する“自主マーチャンダイジング(MD=商品政策)”の欠如。つまり,急激なチェーン拡大を支えた問屋重点主義への批判である。
 もちろん水島氏は自主MDの必要をひしひしと感じてはいる。強力なMDにより高収益を生み出している青井忠雄・丸井社長を引き合いに出して,「うちには“ミニ青井”と呼ぶべき人材が数人いる」と漏らしたことがある。
 高級ブランド品を仕入れることだけが自主MDではない。そごうが一部店舗の生鮮食品売り場で始めた来店客が商品をレジまで運ぶスーパー形式の「集中レジ方式」の導入もMDの一つのアプローチである。
 米国では百貨店の経営危機,倒産が相次ぎ,今や高級路線か大衆路線かを明確に打ち出した百貨店だけが生き残るとされている。百貨店の基本と言われた対面商法を望まないほど,消費者のし好は大きく様変わりしようとしている。
 これまでのそごうの路線を考えれば,今後は低コスト経営に磨きをかけ,大衆百貨店としてのアイデンティティーを確立することが急がれよう。(1992/11/09)

ブランドはなぜ堕ちたか「そごう」1

産経新聞取材班 2001.01

■【破たんした拡大路線】

Narasogo  “神様”がつくったバブル店
 「自社しか知らず、偶像崇拝で井の中の蛙になっている皆さん」
 経営再建のため、そごうに乗り込んだ次期社長の和田繁明・元西武百貨店会長(六六)は、社内報「新生そごうのために」でこう呼びかけた。
 「指示しなければ何もしないと、外部の人々からそごうの社員への評価は低いのです」
 これを読んだベテラン社員は全身から力が抜けるのを感じた。多くの社員同様、かつては水島広雄・元会長(八八)の「拡大路線」で日本一の百貨店になれると信じていたからだ。
 ただ、和田氏の言葉に反発する気はないと、ベテラン社員はいう。「これまで水島さんのおかげで食べてこられたのは事実。神様だと思っていた。でも、今、下手なことをしゃべって、目を付けられたら立場を失う」。和田氏が言明する大規模なリストラが頭をよぎる。
 和田氏は八月二十三日の記者会見でこう言いきった。「そごうの欠陥、欠点をはっきりさせていく」
 約四十年にわたって君臨した水島氏は今年四月、会長を辞任、水島そごうは終焉を迎えた。グループ二十二社の負債総額は一兆八千七百億円にのぼった。

 バブル最盛期の平成元年十月二日。水島氏は、真新しい白亜の建造物を満足げに見上げ、紅白のテープにハサミを入れた。同時にファンファーレと歓声が響き、無数の風船と紙吹雪が古都・奈良の秋空に舞い上がった。
 グループ二十三番目の店舗として開店した「奈良そごう」。「エルメス」「ミラショーン」「バリー」など高級テナントが並ぶ一階の中央部には、法隆寺夢殿を模した金色の「浮夢殿」(うきゆめどの)が鎮座する。四階には、二十二カ国の人形が定時に踊る巨大な仕掛け時計。水島氏お気に入りの「神田やぶそは」など名店を集めた五階レストラン街には人工の川が流れ、同じ階の美術館入り口にはロダンの彫刻「オルフェ」が置かれていた。
 開店式典に招かれた日本興業銀行の役員はその豪華さに心底驚いた。奈良市の人口は約三十五万人、県全体でも約百四十万人にすぎない。観光地ではあるが、それほど購買力が見込める町ではないだけに、来店するまでは「スーパーに毛が生えた程度の店」と思っていたからだ。
 そんな役員に水島氏は満面の笑みを浮かべてこう説明した。
 「どうせ作るなら立派なものを作ろうと思いまして。ただ世間の人には立派すぎると思われているでしょうな」

 そごうグループの奈良への出店は、水島氏の強い意向で決まった。そごうの創業者である十合(そごう)伊兵衛の故郷が大和国十市郡十市村(現・奈良県橿原市)だったことにこだわったとされるが、むしろ、関東に比べて関西での店舗展開が遅れていたことが大きな動機だったようだ。
 出店コンセプトには、水島氏らしいユニークな発想が随所に表れていた。
 店舗の立地は、奈良最大の繁華街である近鉄奈良駅からは約二キロと遠く、最寄り駅からも徒歩で十分以上の距離。平城宮跡や奈良市役所に近いとはいえ、もともとは大半が農地で、「主要駅に隣接することが出店の最低条件」といわれる百貨店業界の定石からは大きく外れていた。
 しかし、水島氏はこれを逆手に取った。千五百台収容可能な巨大な駐車場を併設し、「マイカーで通える郊外型高級百貨店」とうたい、「奈良、京都南部、三重西部の住民をターゲットに、大阪、京都に流出する年間千四百億円の購買力をストップする」とぶちあげたのである。
 このスローガンが功を奏したのか、用地買収は一年ほどで終わり、地元商店と大きくもめることもなかった。文化財発掘調査で、奈良時代初めの悲劇の宰相「長屋王」の邸宅跡が出土し、予定が遅れたことは誤算だったが、地元自治体のバックアップもあり、大きな計画変更は免れた。
 水島氏はよほどうれしかったのだろう。昭和六十三年九月の起工式では「売り上げは一銭たりとも県外に持ち出さず、利益を地元に還元する。地元法人の奈良そごうは奈良県民であり市民です」と胸を張った。

 しかし、出店が円滑に進んだ最大の理由は、日本興業銀行、日本長期信用銀行(現・新生銀行)など金融機関から引き出した潤沢な資金だった。
 用地買収にかかわった不動産業者はこう証言する。
 「平均買収価格は坪百万円前後、当時としては破格だった。奈良市などから要請された歩道橋などの周辺整備にも快諾し、必要とは思えないデポ用地(商品集積地)までも買いあさっていた。羽振りが良く『大企業は違う』と感心していたのだが…」
 開店までに投じた資金は用地買収だけで約三百億円、総額は八百五十億円にのぼった。開店当初の売り上げ目標が三百五十億円だったと聞いて、百貨店関係者は首をひねった。
 「百貨店は利益率が低いので、自己資金ならともかく、年間売上額を超えるような店を出せば、利払いさえ困難なはず。どのような資金計画だったのか理解に苦しむ」
 さらに、不動産の権利関係は複雑なまま放置された。建物は一部の地権者と共同所有。敷地は数十筆に分かれたままで、借地も多数含まれていた。しかも、各筆ごとに金融機関の担保が設定されていた。
 ある金融機関関係者は登記簿をみて目を丸くした。「これでは店舗を売ろうとしても買い手はつかない。水島さんは、見栄えのする立派な店舗さえ完成すれば、後はどうでもよかったんじゃないか」
 この証言を裏付けるように水島氏が奈良そごうに姿を見せたのは、開店から九年が経過した平成十年十二月の一回だけだ。
 奈良そごうは七月十二日、グループ二十一社とともに民事再生法の適用を申請した。負債総額は千二百三十一億円。店舗閉鎖は免れたが、和田氏は「水島そごう」の体質をこう評した。
 「巨大なカリスマの経営者の実に異常なマネジメントのあり方だった」

■【政界と太いパイプ】


「選挙と金」気軽に請け負い
 「バブルがはじけなかったら、長銀(日本長期信用銀行)も潰(つぶ)れず、そごうも安泰でしたのに。政治が悪いのです。残念です」
 そごうの水島広雄・元会長(八八)はこの夏、四十年来の知人にあてた手紙にこう書いている。
 書道愛好家らしい達筆の数行に、知人は水島氏の「無念」を読み取る。「バブルを生み、日本経済を崩壊させたことに政治の責任はないのでしょうか。水島さん一人だけが“巨悪”にされてませんかね」
 政治の力で、そごうの事実上の倒産はあっけなく決まった。七月十一日夕、亀井静香・自民党政調会長から当時の山田恭一社長(七二)に一本の電話が入った。「自主再建の努力をする気はないか。国民の支持と理解を前提とした再建計画でなければうまくいかない」
 一度は金融再生委員会の主導でまとまりかけた銀行の債権放棄による再建が崩れた。自主再建を断念した四月、水島氏が会長を辞任した後、政治家と渡り合える役員はそごうにはいなかった。しかし、そごうと同様に多額の債務を抱えるゼネコンについては、新生銀行(旧長銀)があれほど嫌がった債権放棄に応じる可能性も報道されている。
 「なぜ、そごうだけがだめだったのか。水島さんには、政治に裏切られた思いがきっとある。政治家の面倒だってよくみていたんです」。手紙を受け取った知人は話した。

 昭和四十七年夏。東京・世田谷の水島氏の自邸に、自民党総裁選で敗れた大物政治家(故人)の秘書が駆け込んできた。
 「先生、負けましたけど、頼みますよ」。総裁選前から約束していた献金の依頼だった。 日本興業銀行からそごうに転身した水島氏は、当時、社長就任十年目。そごう自体の経営は振るっていないとはいえ、すでに有力な財界人だった。中央大法学部で教べんを執っていたことも人脈を広げていた。
 「分かりました」
 秘書が拍子抜けするほど、水島氏はいとも簡単に答えたという。
 「あのころ、百貨店の仕事は、政治や行政と切り離せなかった。全国のどこで市街地開発が計画されているのか、出店のときにいかに行政の許可をスムーズに得るか。政界に太いパイプを持つ『水島そごう』はうらやましかった」。ライバル百貨店の元役員は話す。
 この時期、そごうは本格的な多店舗化の「第三次大そごう計画」を発表し、グループ五店目の「いよてつそごう」(松山市)をオープン。横浜、柏、広島などにも開店準備の法人を次々に設立していた。
 大物政治家は生前、水島氏について、そごうを取材した出版社のインタビューにこうこたえている。
 「気宇壮大に生きている財界人」

 「百貨店でものを買ってくれるのは自民党だけではない」
 水島氏の側近は何度もこの言葉を聞かされた。
 実際、そごうの社長室にはさまざまな政治家や関係者が出入りした。
 「ふん、ふん。なるほど」と水島氏が電話で選挙の話をしているので、相手先を聞いたところ、野党の大幹部だったこともあるという。
 ある大臣経験者が初当選したときも、親族が社長室に駆け込んできた。関係者がこう証言する。
 「『資金がないので協力してほしい』と言って、水島さんに頼み込んだ」
 昭和四十九年に広島そごうが開店した前後には、地元選出の代議士がやってきた。
 水島氏はこのとき、苦笑いしながら、一言だけ周囲に漏らした。「外遊するっていうから、飛行機代をはずんでおいたよ」かつて、総選挙のたびに、そごうの社員が四国に駆り出されるのが恒例になっていた。地元選出で水島氏の親せきにあたる衆院議員の応援のためだ。
 この議員は昭和六十一年にそごうの顧問に就任。今年五月に辞任したが、昨年三月からの一年間で、横浜や千葉などそごう系列六店から計約千三百万円の報酬を受け取っていたことも判明している。
 そごうの元幹部社員は言う。「そごう自体にはそれほど金はないけれど、献金は気軽に請け負っていた。政財界に幅広い人脈を持っていた水島さんと付き合うことで政治家の側にもメリットがあったんじゃないだろうか」

 「人口が三十万人になるって、知事が言うんだよ」 バブル期の平成元年、東京・多摩ニュータウンに「多摩そごう」が開店する数年前。水島氏は、鈴木俊一都知事(当時)らと出席した会合からの帰りに、側近に言った。知事の言葉が出店を決意させる“殺し文句”になったという。
 「水島さんの拡大路線ばかりが取り上げられるが、自治体や政治家に頼まれた出店も多かったんです」。そごうの幹部社員はこう振り返る。
 多摩そごうは、グループ平均の約二万平方メートルを大きく上回る三万四千平方メートルの売り場面積だ。だが、ニュータウンの人口は二十万人を手前に思ったように伸びず、年間営業収支は十億円台の赤字。グループの足をひっぱり続け、水島氏が進めた拡大主義の負の象徴になった。
 七月十二日に閉鎖になったとき、そごうの役員は言った。「都のニュータウン構想に基づいて店舗規模を組み上げたんだが…」
 そごうグループの元幹部社員は、水島そごうの浮沈は政治とは切り離せない、と考えている。
 「政治や行政が言ったことがすべてその通りだったら、そごうは倒産しなかった。誤りを見抜けなかったのが水島さんの経営責任なんでしょうか」

■【歴史の荒波】進駐軍接収で「復興」足踏み


Pittsburgh  「隣の大丸に比べて、そごうは昔から雰囲気的に見劣りしていましたよ」
 「品ぞろえもよくない上に人(客)が少なくて、閑散としていましたね」
 大阪の代表的な繁華街、心斎橋で、大丸と肩を並べて建つそごう本店(大阪店)。買い物客の評価は、経営が破たんする前から厳しかった。
 しかし、建築家、村野藤吾氏(一八九一−一九八四年)の設計による昭和十二年完成のこのスマートな本店ビルこそ、そごうにとっては栄辱の歴史を刻み続けた中心地だった。
 「そごうは、近代日本がなめた辛酸と栄光の歴史をなぞるように、発展、膨張し、そしてバブルとともに沈んだんです」
 OBの一人は苦渋の表情でこう語った。

 そごうの創業は天保元(一八三〇)年。大和(奈良県)出身の商人、十合(そごう)伊兵衛が大阪で開業した古手(古着)業「大和屋」(やまとや)にさかのぼる。
 古着は当時、主力流通商品。大和屋は実直経営を展開し、幕末、維新の動乱も乗り越え、順調に明治の近代経営時代を迎えた。
 明治初年。二代目伊兵衛が、それまでは臨時商品だった吊りぎれ(はぎれ)を京都で確保し、常時店頭に置いたことで業績は飛躍。西南戦争で官軍の拠点・大阪が軍需ブームにわいた際には心斎橋へ進出。同時に古手業も廃業し「十合呉服店」となった。
 京都に本格的な仕入れ拠点を置き、神戸で洋反物を扱い、組織化を進めた「呉服店」は急ピッチで近代的な「百貨店」に変ぼうした。大正八年には百貨店としては日本で初めて外国製エレベーターを導入。さらにきめ細かな利益管理のため、分類別に棚卸しを行う「部類別損益計算」をいち早く採用するなど百貨店の最先端を歩んだ。
 昭和十二年に建ち上げた高さ三十一メートル、地上八階地下三階の本店ビルは「ガラスと大理石の殿堂」と称された。
 しかし、本店ビルの建設資金調達がそごうに大きくのしかかり、完成を二年後に控えた昭和十年、十合一族は所有株式の大半を新役員に譲渡、貴族院議員の板谷宮吉氏が取締役会長に就任し、同族経営時代を終えた。
 「法人資本主義への移行は歓迎すべきことだったかもしれないが、直後にやってきた大戦の戦火と、終戦直後の混乱はそごうにとって最大の荒波でした」
 当時を知る元役員はこう振り返る。

 本店ビルは空襲をくぐって焼け残ったが、大きな時代の波がそごうを待ち受けていた。昭和二十一年、進駐軍の接収を受け、PX(軍人、軍属向けの物品販売所)兼慰安施設となってしまったのだ。
 そごうは大阪市内の五つの営業所に分散して「百貨店という名からは程遠い」営業形態で看板を守り、経営の中核は神戸支店が担った。
 元役員は「物資不足の時代ですから、並べると何でも飛ぶように売れた。その間には朝鮮戦争の特需もはさんでおり、多くの日本の企業はこの時期に復興のきっかけをつかんだ。でもPXとなったそごうの人間には、大丸の盛況を歯がみしながら見守るしかなかった」といまだに悔しさを表す。
 さらに、そごう本店ビルには星条旗が翻り、関係者以外は「オフリミット」(立ち入り禁止)の注意書きも掲げられた。
 「本店ビルは“日本人がみだりに出入りしてはいけない場所”というイメージまで植えつけられてしまった」(OB)。
 かつて大丸に勤務し、そごうの経営戦略を分析した著書も多い作家の渡辺一雄さん(七二)によると、進駐軍の接収視察は、そごう、大丸ともに行われたが「視察の日、大丸側は故意にトイレを汚して視察団を受け入れたのに対し、そごうは隅々まで磨き上げていたため対象に選ばれたという話を耳にした」という。
 時代の波に踏みつけられたそごうの経営の足踏みは、昭和二十六年の、サンフランシスコ講和条約の締結を受け、翌二十七年の接収解除で表面的には終止符が打たれた。が、その影響は長く続いた。
 接収が解けた大阪店では、大丸との溝を取り戻すかのように次々と先端技術を導入、ひたすら豪華さを強調した。一階の心斎橋側は道行く人にも見えるようにガラス張りに改造、出入り口には英国製の強化ガラスを使った。側面が透明な国内初のエスカレーターも採用した。
 しかし、こうした多大な投資は再び、経営の屋台骨を揺るがした。投資に加え政府に対する補償交渉など、混乱は続き、この窮地につけ込んだ地元不動産会社による株の買い占め、乗っ取り未遂事件も発生した。
 そごう本店の現役社員の一人は「接収前の大丸を十とすれば、そごうは六ほどの商戦を展開していた。しかし、接収後は十対四、もしくはそれを下回るような苦戦を強いられてきたと聞いている」という。
 この混乱期に社長の死去、重役の辞任など経営陣の変動も重なり、東京進出計画が失敗すると、方向性が見えないまま、巨額の負債だけが残った。昭和三十三年、板谷家の縁続きにあたる水島広雄氏=当時(四六)=が日本興業銀行を辞めて、副社長としてそごうの経営を継承したのは、巨額投資にそごうが押しつぶされそうになっている時代だった。

 そごうのシンボルでもあった本店ビルは、今年八月二十三日、特別顧問として経営を受け継いだ元西武百貨店会長の和田繁明氏(六六)が建て替えを発表した。
 そのニュースにOBのひとりはためいきをつきながらこうもらした。
 「シンボルを撤去することで、これまでのイメージを一掃したいのでしょう。ただ、そごうの歴史は日本の近代流通業界の歩みそのものといっていい。歴史の荒波のあらがい難さは、ほんろうされたものでないとわからんでしょう」

■【水島体制の誕生】大正力と渡り合った気迫


 「くどい。引き下がれ」
 元警視庁警務部長で武道を心得た巨漢、正力松太郎・読売新聞社主は腰から抜いたベルトを手にした。
 「やるなら来い。大家と店子は親子も同然、なぜ耳を貸さぬ」
 立ち向かったのは水島広雄・そごう元会長(八八)。昭和三十三年に日本興業銀行を辞し、四十六歳で副社長としてそごうに乗り込んだばかりのころだ。
 場所は日本テレビ会長室。事態に驚いた秘書が割って入ったが、正力氏はこの時の水島氏の気迫を買い、当時坪四千円だった有楽町そごうの家賃を、事実上半額の「売り上げの五%」とする値下げ交渉に応じた。水島氏は「あの大正力と大立ち回りを演じ、一目置かせた男」として大いに株をあげた。
 この“事件”をきっかけに、その後、そごうが読売巨人軍の優勝記念セールを担当するようになった。
 水島氏をよく知るOBは「学者、理論家というイメージが強いが、体を張った熱血経営者でもあった。本人もそれをアピールしたかったのか、有楽町店家賃引き下げ交渉の武勇伝は後々まで自慢の種でした」と証言する。

 そごうの東京進出は、大阪・心斎橋で本店同士が隣接する大丸の八重洲出店の成功に触発されたという背景があった。しかし、進駐軍の本店接収による経営空白が生んだ混乱に加え、体力の差は、家賃だけでなく、店舗の狭さなど、あらゆる条件にはねかえった。
 「有楽町で逢いましょう」のキャッチフレースや同名の映画、主題歌のヒットで華々しいデビューを飾ったにもかかわらず、「品ぞろえが悪い」といった不評が立った有楽町そごうの業績不振は、そごうを倒産寸前に追い込んだのだ。水島氏がそごうに副社長として乗り込んだのは、こうした台所状況が切迫した時期だった。
 当時の板谷宮吉社長は責任をとって辞任したが、水島氏の夫人が、その板谷財閥の一員、板谷康男・板谷商船取締役の妹だった。
 「よく誤解されますが、水島さんは興銀から送り込まれた再建役員ではない。大株主の板谷財閥代表という形での経営参画でした。それだけに有楽町そごうの後始末については必死だったのでしょう」と関係者はいう。
 戦後そごうの窮状を救った水島氏は、その後、社長、会長として三十八年にわたり、そごうのけん引車として走り続けることになる。

 水島氏は中央大学法学部をトップで卒業後、興銀の銀行員でありながら、企業の担保を専門に研究を続け、母校、中央大学の大学院で講師を、また東洋大学でも教授を務めた筋金入りの理論家だった。
 昭和二十八年には、従来、企業が機械など所有財産一つ一つを担保にして銀行の融資を受けていたのに対し、経営者の意欲をはじめ企業の能力全体を大きな担保として、多額の融資を受けられるようにすべきだとする学位論文「浮動担保の研究」で法学博士号を取得。この理論は三十三年、実際に「企業担保法」として法制化され、復興をめざす日本企業全体に大きな恩恵を与え、高度成長を支えた。
 その水島氏が社長に就任する前、社内では革命のような大混乱が起きた。
 板谷社長が辞任した三十三年、臨時株主総会で当時、日本繊維工業社長で東北電気製鉄、京都新聞社などの会長を務める坂内(ばんない)義雄氏が社長に選任されたが、その坂内社長が三十五年に死去。
 取締役会は後任を大株主の大和銀行をはじめ野村証券、山一証券、板谷宮吉氏ら大株主で作る「五者会」の推薦を待ったが、実際には筆頭株主、大和銀行の意向で副社長の若菜三良氏が選任された。
 この人事は財界で物議をかもすところとなり、大和銀行が公正取引委員会に提訴される事態にまで発展。結局、三十六年、朝日麦酒の山本為三郎社長のあっせんで若菜社長は腹心らと辞任した。
 この間、東京で活躍していた水島副社長に白羽の矢が立ち、一年後に正式に社長に就任したが、「水面下では大和銀行と若菜、対する興銀と水島による社内の激しい東西抗争があった」と指摘する元幹部もいる。

■【救世主・水島新社長】バブルに乗った経営理論


 「後からくる旅人たちのために、そごうはもっともっと大きくならなきゃいかん」
 進駐軍の本店(大阪店)接収による経営空白や有楽町そごう(東京店)の業績不振で暗礁に乗り上げていた戦後のそごう。その窮状を救ったのは、旧経営トップの遠縁で、昭和三十三年、四十六歳で日本興業銀行を辞め副社長として乗り込んだ水島広雄・元会長(八八)だった。
 その水島氏は内紛を乗り越え社長に就任した後、冒頭のような言葉を口癖のように側近や幹部らに語りかけ多店舗戦略の展開を訴えたという。
 後からくる旅人とは、やがて入社してくる未来のそごう社員のこと。
 「最初は“よそからきた人”“東京店の人”だと、親しみなどわかなかったが、理論家らしく博識で、同時に教育者らしく、その言葉は“出遅れた百貨店”の委縮した社員を感動させる電気を帯びていた。すぐに救世主のようなイメージに変わった」と、長年本店に勤務したOB社員はいう。

 いずれにせよ、生みの苦しみが大きかった分、水島そごうの立ちあがりは素早かった。
 三十七年には資本金を十億円に増資。翌三十八年には「経営合理化計画」を発表。営業、人事、設備、経費、組織の五項目の合理化を掲げた。古い社員の多くは「そごうは水島さんが実権を掌握して以後、全く別の会社に生まれ変わった」と証言する。
 同じころ、水島氏は労働組合との関係改善にも力を入れた。
 当初は臨時賃金支給をめぐって労使が対立、激しいストライキが社外から批判を浴びたこともあったが、社長に就任した水島氏は新賃金体系を打ち出し、労使関係は急速に協調に向かって動き出した。
 「帰宅の際には社員バッジを外す。飲み屋で大丸の社員と出会ったらそっと席を立つ。そごうの食料品売り場で買い物をしているのは、自店の混雑を嫌ってやって来る大丸の社員ばかり」(OB社員)という環境の中で、社員の士気やモラルは低下。加えて顧客の不評という悪循環を生み出していた。
 水島そごうの誕生にOB社員は「水島新社長の話を聞いていると、元気が出てきた。教育者が出来の悪い生徒をやる気にさせるような雰囲気だった」と話す。

 所得倍増が叫ばれた高度成長期だが、その高度成長を間接的に招来させたともいえる水島氏の浮動担保理論は時代の順風を受けた。四十一年には「成果第一主義」を経営方針に「全社売り上げ六十億円」の目標を掲げる強気の展開に着手した。
 そして四十二年、四店目の千葉そごうで初の別法人による出店を展開。「百貨店は地域で一番大きな店でなければいけない」という「地域一番店主義」の発想は成功、四十年代半ばにはそれまでの赤字を解消、黒字に転じた。以後、出店、地価上昇、それを担保に新たに出店というサイクルをバブル崩壊まで繰り返した。
 「自らがそごう入りした直後に苦しめられた東京店の失敗によほど懲りたのでしょう。出店するなら大きな店で、というその後の姿勢は、すべて有楽町そごうの反動だったと思います」と元側近はいう。
 戦後そごうを苦しめ、水島そごう誕生のきっかけとなった有楽町そごうは、特別顧問で元西武百貨店会長の和田繁明氏(六六)によって九月二十四日閉店が発表された。
 水島時代のすべてをみたという旧幹部はこういう。
 「そごうは水島さんにとって、学者としての理論と仮説を実行に移す場だったのではないか。弱小そごうを全国、やがて世界に展開するという経営的野望に、学者経営者としてロマンを感じていたと思う。その理論がバブル崩壊とともについえるまでは…」

■【巨大なダイヤ】


 “闇世界”にも太いパイプ
 大手繊維会社「帝人」の大屋晋三社長(当時)の妻、政子さんの甲高い声が響いた。
 「ひゃー、大きなダイヤモンドやわ」
 昭和五十年代前半、東京・世田谷の水島広雄・そごう社長(同)の自宅か、有楽町そごう(東京店)の社長室でのことだった−と水島氏の知人は記憶している。大屋さんが水島氏から奪うようにしてまじまじと見たダイヤは二十カラット、時価一億円相当。「これが、児玉(誉士夫)さんからもらったうわさのダイヤなん?」
 水島氏と右翼の大物、児玉氏が結びついたのはこの数年前。昭和四十六年に始まり、戦後最大と騒がれた三光汽船によるジャパンライン株買い占め事件だ。
 三光汽船を率いる元国務相・河本敏夫氏との交渉に手を焼いていた調停役の児玉氏が水島氏に協力を頼み込み、何とか解決した。ダイヤはその謝礼だった。
 水島氏と交渉した河本氏は、そごうを紹介する「そごう さらに壮大なる未来へ」(ストアーズ社、山森俊彦氏著)の中でこう回顧している。
 「水島さんは金融界だけでなく、運輸省などの官界や政界と、あらゆる分野で顔を知られていた。大変、良い仲裁をしていただいた。水島さんが仕事を進めるうえでの原動力は、あらゆる分野の人たちに絶大な信用と信頼をいただいていることにある」

 バブル期の平成三年、「水島人脈」をめぐるうわさが飛び交った。
 旧東洋信用金庫(大阪市)などを舞台に、偽造した預金証書を担保に金融機関から巨額の資金を引き出した元料亭経営者の女性が逮捕された「尾上縫事件」。多額の金を貸し込んでいた興銀のために水島氏の力が発揮されたというのである。
 「大半が不良債権化して問題になっていた。興銀が国会で徹底追及を受けそうになった際に、これ以上の追及をやめてもらうように水島さんを通じて自民党の“大物”に口を利いてもらったというのです」。元銀行幹部は当時のうわさについて解説する。
 中央大の同窓生や講師時代の教え子、興銀時代の交際、親族などが水島人脈の基礎だといわれている。しかし、フィクサーたちとのつながりも尋常でない。
 「最大の武器は有言実行の行動力と度胸。しゃべり方は穏やかなのに肝が据わっているから、信頼された」(そごう元幹部社員)。

 「奈良そごうの件、よろしく頼みます」。昭和五十九年春、奈良県内の有力者宅で、「田岡一雄・山口組三代目組長の知恵袋」といわれた暴力団組長は頭を下げた。
 この組長は同じ日、ほかにも複数の有力者宅を訪ねてまわった。「そごうのバックには暴力団組長がついている」。うわさはすぐに広まり、奈良そごうは地元の暴力団などから妨害や圧力を受けずに、平成元年のオープンを迎えた。
 この数年前、神戸市の国鉄(現・JR)新長田駅前の百貨店の中華料理店で開かれた組長の親族の結婚披露宴で、水島氏の右腕といわれたそごう幹部が仲人を務めたこともあった。

 「百貨店というのは、きれいごとだけではすまされない業界だった」。そごうとは別の百貨店の元役員はこう話す。
 平成五年六月、水島氏の自宅の門扉に短銃数発が撃ち込まれた。水島氏を狙ったものなのか、誤射なのか今も分からない。
ただ、当時、東京・錦糸町の出店問題が、資金難で雲行きが怪しくなっていた時期。そごう側は「まったく思い当たる節はない」としたが、「さまざまな憶測を呼んだ」(流通関係者)。
 「水島そごう」にとって、闇(やみ)の勢力とのつながりは、何を意味していたのか。
 「もう少し時間がたてば、いろいろ話せるかもしれない」。神戸で暴力団とそごうの間を取り持ったとされる関係者はこう話した。

■【巨大旗艦の光と影】 あだになった横浜の成功


Snowy_2  「今、横浜にはろくな百貨店はありませんが…」
 横浜そごうが昭和六十年にオープンする前の式典。水島広雄・元会長(八八)=当時、社長=のあいさつに、招待客の一人だった横浜高島屋の役員は、聞こえないふりをして平静さを装った。
 「あの言葉だけは一生忘れられない。百貨店業界はお公家さん的な人間が多いけれど、『水島そごう』はあまりにも違った」
 売り場面積約六万八千平方メートル(当時)。世界最大規模を誇るグループ十七番目のこの店は、巨艦主義者・水島氏の集大成だ。高島屋や三越などが先行していた横浜に、「グループ挙げて殴り込みをかけた」(そごう社員)。
 とりわけJR横浜駅をはさんで向かいあった高島屋との角逐は『横浜戦争』と呼ばれた。「水島さんの自信のあふれる言葉で、われわれも勝てると思い込めた」。ライバル店には尊大と映る水島氏の言葉も“三流百貨店”と自虐することが多かったそごう社員たちに勇気を与えていたという。

 横浜そごうオープンから間もないころ、横浜市内のスナックで、地元企業の役員は、顔見知りの横浜そごうの幹部社員の手首に金製の高級腕時計が光っているのを見た。
 「業績が良いのを喜んでくれた水島社長からもらったんです」。まるで勲章をもらった軍人のように誇らしげだったのを、この役員は覚えている。
 横浜そごうでは、グループの弱点とされる外商部門でもしゃかりきになって業績を伸ばした。オープン前に採用した新卒社員らを次々に動員。高島屋の三倍近い人数で百万戸以上をローラー戦術でまわった。
 「ひたすら、水島さんが言う『日本一の百貨店』にしたいという思いでみんな頑張った」と開店時からの社員は話す。
 当時、高島屋の幹部社員は、得意先の地元の財界人にこう言われてショックを受けたのを覚えている。「お宅の百貨店は月に一、二回しかこないけど、そごうは毎週来るんですよ。若いけど熱心なので、買ってあげたよ」
 ところが、『戦争』の結末は予想を覆すものだった。
 オープン翌年の昭和六十一年度の横浜そごうの年間売り上げは目標を百億円上回る八百一億円。ライバル・横浜高島屋も前年度と比べて六十一億円増の千五百六十一億円まで伸ばした。横浜そごうは平成十一年度でも、そのライバルにあと二百九十億円に迫る千三百五十億円を売り上げている。
 「東京に流れていた購買力を横浜に引き戻した水島さんの手腕はすごかった、ということですかね」。水島氏の言葉に歯噛みした高島屋の元役員ですらこう述懐した。

 水島氏が横浜進出を決意したのは、昭和三十三年にまでさかのぼる。日本興業銀行の考査役からそごう副社長になったばかりの年。東京、大阪、神戸の三店舗だけで「倒産寸前の百貨店」(元社員)という状況での夢だった。
 「横浜そごう開店10周年記念誌」には水島氏のこんな言葉が掲載されている。
 「当時、横浜駅東口開発が始まろうとする予兆があった。私としては、駅と海を一体化した開発を考えていました」
 水島氏は横浜市議会の一部などに生まれていた再開発の運動をいち早くとらえていたばかりか、元神奈川県知事や横浜市長といった有力者への根回しも忘れなかった。
 ただ、その横浜の成功が「あだになったのかもしれない」と、横浜そごうの元役員は嘆息する。
 横浜の後、地域開発と一体になって水島氏が進めた出店は二十店以上。昭和三十年代の発想がバブル崩壊まで続けられた。
 七月に民事再生法の適用を申請した時点で、横浜そごうの負債は千九百五十五億円。
 元役員は言う。
 「大きなことはすべて水島さんが決めることで興味もなかった。言う通りにしておけば間違いないと思っていたから…」

■【担保論と再開発】地域取り込んだ水島方式


 そごうの水島広雄・元会長(八八)は、自らの経営をよく網の目に例えた。「店は網目の結び目の一つ。この網の目が多くなればなるほど、丈夫になり、他の網の目がお互いに支えあう」と。
 “錬金術師”。水島氏はしばしばこう例えられる。そごうを約四十店舗に拡大し、業界トップクラスにまで押し上げた手腕への称賛でもある。
 この錬金術の原点は、自らが日本興業銀行時代にまとめた論文「浮動担保の研究」だ。水島氏にとって、そごうは自分の理論を実践するフィールドワークの場所だった。
 出店地周辺を買いあさり、出店で地価が上がることで資産を増やす。こうして担保力をつけた黒字の店がお互いに債務保証しながら銀行から資金調達し、新たな店舗を作っていく。
 例えば、そごう本体が一〇〇%出資して設立した千葉そごうが軌道に乗ると、今度は千葉そごうが出資して、柏そごうを設立。さらに柏そごうと千葉そごうが共同で札幌そごうなどに出資するという形だ。
 多店舗展開は、それぞれの負担が小さくなるというメリットもある。例えば、十店舗で出資したケースで一社あたりの負担が二十億円ならば、二十店舗では一社あたり十億円の負担で済むといったあんばいだった。

 水島氏が法学博士を取得した論文「浮動担保の研究」は、日本の法制度の中に、英国独特の「企業担保制度」を取り入れた斬新(ざんしん)なものだった。
 「会社を担保にする」という水島氏の「浮動担保」理論は、これまで土地や建物といった不動産に設定されていた担保の概
念を大きく覆した。
 そして、昭和三十三年に「企業担保法」として成立し、“水島法”と呼ばれるようになった。
 この理論を遂行するための“旗艦”が、昭和四十二年、そごう四番目の店舗として産声を上げた千葉そごうだった。そごう本体だけでなく、他店舗の筆頭株主でもあり、グループの親会社的な存在となった千葉そごうは、グループの多店舗展開を支え、「網の目」の核となっていった。

 水島氏の錬金術を読み解くもう一つのキーワードは、「再開発」だ。
 「ここでもうけた利益は一銭も本社には持ちかえらない」
 徳島そごう(徳島市)が昭和五十八年十月、JR徳島駅前の再開発事業の一環としてオープンした際、水島氏は開店式典でこう言い切った。
 約二万四千平方メートルもの売り場面積を誇るそごうの進出は圧倒的で、既存の二つの地元デパートを駆逐し、今では県内唯一のデパートにまで成長した。
 「地方都市の再開発に目を付け、いい土地を買い、大きな店を建てる。すると集客力が高まり、信用力を高めるという発想だった」。ある金融関係者は水島氏の錬金術をこう読み解く。
 水島そごうは、この発想を次々と具現化するための情報収集にも余念がなかった。「店舗建設でつながりのあるゼネコンからも情報が入っていたのでしょう。地方都市の再開発事業の話をよく知っていた」と元金融機関幹部はいう。特に大規模な計画になると「軒並み、進出企業として名乗りをあげ、再開発を独占するような意気込みの時期もあった」(百貨店関係者)。
 百貨店は、進出にかかる約三百億円を回収するだけでも十年近くかかるとされる。それだけに資金調達がネックになりがちだ。が、地元密着を強調することで、地元地銀からの融資も受けやすかった。
 「地域経済のけん引役という役割を持つ地銀にとって、そごうとの取引はハク付けになるから、『そごうさん、再開発計画の際は、うちをお忘れなく』という雰囲気を自然と作りだしていた」と金融関係者はいう。
 さらに別法人システムは社員の大半を地元の採用組が占めるという形で、地元に雇用拡大という大きな利点を生み落としていった。行政側にとっても捨て難いメリットだ。
 ある百貨店関係者は「地方都市に都会の薫りを持ち込んだという点で存在意義は大きかった。地域一番店という方法は間違っていなかったかもしれない」と話す。

ブランドはなぜ堕ちたか「そごう」2

■【水島理論の落とし穴】「私が担保。前進のみだ」

 「(出店しなければ)違約金で百十億円取られる。やるなら二百億円が必要。進んでも引いても金が出る。こうなれば私が担保になって前進あるのみだ」
 錦糸町そごう(東京・墨田区)の出店問題で揺れる平成七年夏、知人に出店への決意を語る水島広雄・元会長(八八)は、いつになく語気を強めた。そごうは当時、二者択一を迫られていた。いきさつはこうだ。
 平成二年、JR錦糸町駅北口の再開発事業に参加したそごうは約二百四十億円の負担金を抱えた。が、銀行の融資が停滞したなどの理由で当初から滞納。
 さらに阪神大震災が追い打ちをかけた。七年二月、神戸店再建のため、岩村栄一社長(当時)は錦糸町への出店を断念した。
 これに行政側が反発。奥山澄雄・墨田区長(当時)が水島氏を訪れ、「出店を断念するなら、滞納している百億円は大阪本店の資産を差し押さえてでも回収する」と詰め寄ったのだ。
 にっちもさっちもいかないまま、出店を決意した水島氏は負担金を工面するため、自らを担保に個人保証する形で、興銀と長銀(現新生銀行)から約二百億円の融資を受けることを決めた。
 「おれが担保だ」。水島氏がこう言いきったとき、「企業」を担保に拡大を続けてきたそごうの歯車はついに狂い始めた。

 水島氏が生み出した「企業担保法」は、「企業が担保」というこれまでにない概念で、戦後日本の復興に大きく貢献し、高度経済成長を支えた。
 昭和二十年代後半、朝鮮戦争の特需にわく中、受注の多くは、中小企業がこなしていた。水島氏の教え子で東洋大法学部の浅野裕司教授は「『不動産が担保』という概念が一般的だった当時、戦争で多くの資産を失った大企業は、銀行からの融資を受けることができなかった」と指摘する。
 そうした風潮に立ちはだかった「企業担保法」は、新日鉄や日立製作所、川崎重工業など製鉄や重工業の企業にとって「渡りに船」だった。
 「企業」を担保に銀行から融資を受けたこうした企業は、朝鮮特需の恩恵にあずかるなど、日本経済はその後、一気に高度成長の道を駆け上がることになる。浅野教授は「机上の研究で実際に効果が出ることは九九%ない。実際に使え、さらに日本の産業界を立て直すのに役立ったのは水島先生の理論だけ」と話す。

 では、なぜそごうは破たんしてしまったのか。
 “護送船団”ともいえる別法人による経営は、それぞれが隔壁の役割を果たすという利点があった。
 興銀のある元幹部は「経営組織が一つの三越は主力の日本橋がダメなら、会社全体がダメになる。だがそごうには隔壁がある、と水島さんは常々自慢していた」と話す。
 つまり、水島氏の思惑はこうだ。ある店舗が経営不振になった場合、その店舗を閉店させる。こうして一つずつ閉店していけば、そごう本体には累が及ばないという発想だ。
 資産の差し押さえを迫られた錦糸町そごうのケースでも、この隔壁が功を奏した。錦糸町の出資元は、千葉そごうや横浜そごうなど首都圏の七社だったため、大阪本店を有する本体は難を逃れた。
 しかし、こうした利点の一方で、各店舗がお互いに債務保証しながら、出店を続ける経営方針に疑問を投げかける声もある。
ある百貨店関係者は「自転車操業は一つ破たんすれば、連鎖反応を起こす。全体が大きくなりすぎて、いくつかの店舗の収益ではカバーしきれなくなったのでは」と指摘する。
 そして、バブルがはじけた。
 消費が低迷する中、売り上げが伸び悩む各店舗は赤字に。さらに土地の資産価値が急落、グループの屋台骨である千葉そごうの負債額も膨らむばかりだった。それぞれの店が巨額な負債を抱え、ついに“共倒れ”になってしまった。
 果たして「企業担保法」は机上の空論だったのだろうか。
 浅野教授は「実務と盆の上ではやはり違う。しかしはっきり言って、そごうの場合は融資を続けた銀行に問題がある」と、無軌道な貸し付けを展開してきた銀行の責任を指摘する。

■【遅すぎた大政奉還】“現地主義”隠れみのに


Hiroshimasogo  「支店長さん、こちらにどうぞ」
 昭和四十九年十月のある夜、広島市内の料亭で、女将の何気ない言葉が、主賓の背の高い中年男を怒らせた。
 「おれは『支店長』じゃないぞ。『本店長』だ」
 そごうグループ七番目の「広島そごう」がオープンする数日前のことだ。そごうは、水島広雄・元会長(八八)=当時社長=の方針で、東京、大阪、神戸の三店舗以外はすべて別法人制をとっているが、女将はそんなことは知らなかった。
 「広島は『支店経済』でしょ。先にあった三越や天満屋(本店・岡山市)だって支店。ほかの大企業もそう。ところが、そごうの店長は本社の部長級から出世して、一店を任されたという自負があった。女将は少し気の毒でしたね」。その場で「店長」をなだめた元社員は振り返る。
 水島氏は最終的に四十四店舗にまで膨張する拡大路線の中で、表向きは徹底した“現地主義”をとった。「地元に骨をうずめてこい」。多くの店長が水島氏のこんな言葉で送り出された。
 「そりゃあ、やる気になりますよ。店が増えれば、増えるほど『店長ポスト』は増える。店を作ってしまえば、あとは水島さんは口出ししないから、営業のやり方だって思うがままでしょ」。現役の幹部社員は、現地主義の効果を解説した。

 その広島のホテルで、水島氏は地元経済人らを前に講演したことがある。そごうの拡大路線にほころびが見え始めた平成六年九月のことだ。
 日本興業銀行や日本長期信用銀行(現・新生銀行)から役員を迎え、会長に退いたこの時期になっても、水島氏はまったく持論を曲げていない。京都・舞鶴出身らしく少し関西なまりの声でぶった。
 「私の経営方針は『自分で歩け』。だから、広島そごうは広島市民。決して支店ではありません。広島市にちゃんと納税しています」
 だが、現地主義のもう一つの狙いが図らずも吐露されていた。
 「一つの店を作るのに、だいたい四百億(円)ですね。そうすると、四十(店舗)作ると、まあ一兆六千億ぐらいの金がかかります。この金利が大変ですよ。一つこさえると、二、三年のうちに三百億の赤になります。そこで自主独立。親(会社)と切っちゃおうと。親会社に迷惑をかけないようにする。そうしないと、店は増えっこないですよ。大玉(親会社)が借金して、無配にしたら、経営者は首ですよ」
 そごうは経営が破たんするまで、株式の比率などでグループ各社を連結決算の対象から巧妙に外し、その裏で各社間の巨額の融資や債務保証を続けていた。現地主義をうまく利用していた。
 今年七月、グループ二十二社が民事再生法の適用を申請した時点での全体の負債総額は、水島氏が言った「一兆六千億」を少し上回る約一兆八千七百億円にまで膨らんでいた。「自分の理論が破たんしたとき、どんな結果になるか、水島さんは知っていたのではないか」。元幹部社員はため息をついた。

 「同じ『そごう』でしょ。大阪と神戸で、どうしてここまで、雰囲気が違うんですか」
 大阪・心斎橋のそごう大阪店をたまに訪れる三十歳代の主婦は素朴な疑問を口にした。「神戸は華やかで品ぞろえも豊富なのに、大阪は何となく暗くて、陳列もころころ変わって分かりにくい」。事実上の倒産の前から、こうした見方は多かった。
 実際、平成十一年度の売り上げをみると、大阪店(売り場面積約三万一千平方メートル)が四百五十六億円なのに対し、神戸店(四万一千平方メートル)は八百十八億円と歴然とした差がある。「これも現地主義の一つの欠点でしょうか」(社員)
 「幕藩体制」。水島氏はグループ各社を別法人にすることをこう呼んでいた。ライバル百貨店の元役員は言う。「大政奉還が遅過ぎた」

■【巧みな人心掌握術】社員は全員“水島教信徒”


 「今日のそごうを築いたのは私なんかじゃない。君だ。なぜ死んだ。君があの時、だれよりも苦労をして奔走したことは聞いている…」
 「神様」「救世主」とまで呼ばれた水島広雄・元会長(八八)。急死した社員の通夜に参列した水島氏は、一時間も前に駆けつけ、肩をふるわせながら、棺に向かって涙声で語りかけた。
 総立ちのまま遠巻きに、聞き耳を立てる関係者の間からは、すすり泣きがもれる。
 三十分にわたる棺との“対話”が終わった後、振り返った水島氏は、高校生と中学生になる遺児の手をとって口を開いた。
 「君たちのお父さんは、日本一の百貨店をつくった偉い人だ。しっかり勉強してお父さんのような人になりなさい」
 続いて、夫人に「大変しっかりしたお子さんたちだ。もしご本人たちが望み、奥さんもご承知くださるなら、水島そごうは将来いつでもお子さんたちを採用する」。
 夫人の感激は、口から口へと伝わり、葬儀の手伝いにきた社員たちに大きな感動を与えた。
 長年、そごうグループに出入りした業者の一人は「働き盛りの社員が亡くなると、だいたいこんな光景が定番でしたよ。演技とは思えなかった。もし演技だとしたら、相当な役者ですよ」という。

 そごうはほかの百貨店と比べて、社員の給与は決して高いとはいえない。が、「朝七時半には開店準備がはじまるというのに、前日から明け方の三時、四時まで働く社員もおり、新規出店前のそごうは異様なまでの熱気に包まれていた」と百貨店関係者は口をそろえる。三越や高島屋、大丸などに対する社員のコンプレックスには「おれのいう通りにすれば、そごうは一番になれる」と独自の理論を展開して労働意欲を喚起したという。
 「いつ寝ているのかと、はた目にも心配になったくらいですよ。社員の水島元会長への信頼は、信仰といってもよかった。
『そう、社員は全員、水島教信徒なのだ』と気づいて、ようやくあの熱気が腑(ふ)に落ちました」
 今年七月十二日、そごうグループは事実上倒産し、民事再生法の適用を申請した。グループの抱える負債総額は一兆八千七百億円にも達し、再建に伴う国民負担は千二百億円にものぼると予想されている。
 しかし、その結果を招いた水島氏に対し、一部のそごう社員の思いは今でも憎しみよりも、愛惜に近いようだ。
 水島氏の多店舗拡大路線は社員にとって大きな魅力になっていた。ポスト増につながったからだ。
 「水島さんは私たちに夢とロマンを与えてくれた」と現役幹部。「それぞれ法人化することで同数の社長が生まれた。ポストも増え、われわれも頑張れば社長や部長になれると思えるようになれたんです」
 しかし、その一方で「“夢とロマン”が、水島さんに反発し、苦言を呈するような社員を減らしていったのも事実」とも。
 「とにかく水島さんは日本人の感覚を越えるほどに度量が広い。そこらの社員でもなるべく『さん』付けで呼ぼうとしていた」と現役社員はいう。
 別の百貨店関係者は「人心掌握術は、元銀行員、学者という顔からは想像できないほどたけていた」と評価。その上で「面従腹背の社員と、追随せずに陰で一生懸命やる社員は見ぬいていた」と水島氏の“怖さ”を指摘する。

 水島氏のカリスマ的な魅力を倍加させたのは、こうした人心掌握術だけではない。経済界への強力な影響力も見逃せない。
 「明治生まれの経営トップ。企業担保法をつくって、戦後の高度成長を招来した伝説の人でもあり、ここ十数年は同業他社のトップをはじめ、名のある経済人の多くにとっても雲の上の先輩でした。従って、社内で意見のできる部下などは皆無だったのではないですか」と出入り業者。別の出入り業者も「突出したナンバーワンがいて、その次はナンバーテンが何人もいるような感じだったよ」ともいう。
 しかし、退職後に破たんを目の当たりにした旧幹部の一人はこう述懐する。
 「長年にわたるオーナー生活で、“裸の王様”になってしまい、感覚が時代とずれてしまったのかもしれません」

■【裸の王様】長き君臨…後継者育てず


Mizushima_2_2  「およそ人にものを聞かれて“知らない”などということは一切なかった」
 「車の座席には、受験生のようにアンダーラインを引いたぼろぼろの英和辞書を常に積んでいた」
 そごう社内にカリスマ的支配体制を築いた水島広雄・元会長(八八)の人間的魅力を、その並外れた努力に見いだす部下は多い。
 昭和六十二年十一月、台湾・台北市の「太平洋そごう」の開店記念式典。国民党政府要人が見守る中、水島氏はいきなり北京語であいさつをはじめた。当時の側近の一人は「いつのまに北京語を勉強したのか」と驚いたという。
 「同時に、質実でもありました」
 長年、大阪本店に勤務した男性はいう。
 「水島さんが社長に就任後間もなく、出張で有楽町そごう内にあった社長室を見ました。階段横の三畳ほどの汚い小部屋で、とても外部の人にはお見せできないと思った。交通会館に社長室を移したのは、後になってのことです」

 こうした姿勢を地とみるか、それとも人心掌握をめざしたスタンドプレーと見るか、その評価は人によって分かれる。
 「社史や広報紙で水島の顔写真を掲載する際、そごうに来る前の、学位をとったときの記念の顔写真しか使わせなかった。
百貨店経営者よりも、自分は本来学者なのだとアピールしたかったのではないか」とOB社員の一人は証言する。
 また、名刺や広報誌掲載をはじめ、自らの名前が活字になる際は、「水島広雄」の「広」をかならず旧字の「廣」にするよう指示するなど、他者の視線を気にしたこだわりは多々あったという。
 発言にも一種の神韻をひびかせる趣味があった。
 千葉そごう、横浜そごうなどの出店成功についてその時々に経済紙などのインタビューに「そこに地熱を感じた」と語り、有名になった。
 もちろん地学的な意味ではなく、「やがて人が集まる場所のオーラ」ともいうべき表現で、多くの幹部も、「地熱を感じとれる指導者」のカンに頼り切ったという。
 社員にいたっては、全そごう労働組合までもが、やがてその機関紙に「夢と希望を与えてくださった水島広雄社長さまに感謝」と大見出しを組むなど、労使の関係を超越した強固な全社一丸体制に傾倒した。

 しかし、経営拡大路線が高度成長、そしてバブルの波に乗って成功すると、その「質実」の面に関しては表向きはどうであれ、内実は多少変化し始めた。
 都内の一等地に豪邸を構え、新たな店舗には、年に一、二度しか来訪しない水島氏のためにシャワールーム付きの専用室が。
さらに伊豆など各地には、事実上、水島氏の別荘として使用された豪華な迎賓館が建設された。その存在は社員にも知らされなかったという。
 破たんに至ったこの十年の間も年間約四億円もの報酬を受け取り、同様に役員報酬も、役員数こそ減少したものの経営難をしり目に、報酬総額は増加し続けた。
 「一度はつぶれたも同然の百貨店を蘇生(そせい)させた功労者。本人の報酬の額で文句をいえる社員などいなかったでしょう」
 元大丸社員で、そごうの経営戦略などを分析した著書も多い作家の渡辺一雄さん (七二)は言う。
 水島氏に対しては「百貨店は人が人に物を売る人間業種。私も水島さんのような経営者の下で働きたいと思った。こういう事態になっても水島さんに対しては悪辣(あくらつ)なイメージはわかない」と話し、「バブル崩壊の潮時を見誤ったことと、見誤るほどに老いるまでトップに君臨し、後継者を育ててこなかったことが最大の罪か。ただ、国がもう少し世界的な経済戦略をしっかり持って、バブルとバブル崩壊を招来させなければ、経済大国の英雄は英雄のまま晩年を迎えたのではないですか」と分析している。

【労組の感謝状】「社長様」と徹底して賛美


 そごうの水島広雄・元会長(八八)=当時社長=は手帳に目をやりながらつぶやいた。「中央大の学生はみんな入れてやりたいんだよな」
 昭和四十年代の初秋。そごうの社長のかたわら、週末の非常勤講師を務めていた母校・中央大法学部での講義の後のことだ。
手帳には、そごうや日本興業銀行に就職を希望する学生たちの名前が「〇」や「◎」といった印とともにびっしりと書かれていた。
 「就職活動の時期になると、ふだんは講義に出席していない学生たちがどっとくるんです。先生は一筆書いた名刺を一人一人に渡したりして、実に親切に対応していました」。教え子の一人はこう振り返る。
 今年四月に水島氏が会長を辞任する前のそごうの幹部社員をみると、マネジャーや部長以上の中央大出身者は本社だけで約二十人。秘書室や経営企画室、人事本部、東京店長、大阪店長…と中枢をおさえている。「中央大は出世の条件だった」(元幹部社員)。
 他大学出身のそごうグループの現役役員は言う。「中央大出身者はグループをつくって水島さんを取り巻いていた。僕らは陰で『ばか門会』って呼んでましたけど…」

 「水島社長こそ、そごう人にとって幸せを与えてくださる神様であり、ただただ感謝を申し上げるばかりであります」
 昭和六十二年、社長就任二十五周年を迎えた水島氏にこんな感謝状が渡された。
 贈ったのは役員会でもなければ、中央大の教え子たちでもない。経営をチェックする機能もあるはずの労働組合「全そごう労働組合」だ。この年、グループ二十店目の「太平洋そごう」(台湾)の出店を達成した水島氏を「日本一の経営者」と持ち上げた。
 「いま振り返ると、あまりに恥ずかしい。社員全員が水島さんの拡大路線を手放しで後押ししていたことになる」と元社員。
 ボーナス支給額の妥結や春の賃上げが決まると、各店の通用口には、決まって労組の“速報”がはり出れた。
 「またも満額回答!これもすべて水島社長様のお陰です」
 長年、そごうと取引した業者は「あのはり紙を見ると、この会社は本当に大丈夫なのか、と思った。従業員の大半が水島さんに“洗脳”されていたのでしょう」。
 この異常な“労使協調”で一万人社員の支配を進めた水島氏のパートナーは、昭和五十三年から二十二年間も労組に君臨した前委員長(五九)だ。「水島さんと通じて、人事を仕切っていた」(元社員)。
 実際、労組幹部になることは出世の近道だった。「委員長に気に入られれば、店長になれる。逆らえば出世できないというのは、社員のだれもが知っていた。もちろん労組で『水島批判』はご法度だった」と元幹部社員は言い切る。
 前委員長は、経営再建を進める和田繁明次期社長体制の調査で組合費の私的流用疑惑などが浮上、八月二十九日付で懲戒解雇になった。委員長時代に出版された「ポケット社史 そごう」(経済界)の中には前委員長の言葉が記されている。「(水島氏には)いつまでも健康で、いつまでもわれわれの社長を続けていただきたい」

 昭和六十年九月二十五日、世界最大規模と騒がれた横浜そごうのオープンをひかえた「開店労使祝賀前夜祭」で、くす玉が割られると、五色のリボンとともに大きな垂れ幕が現れた。
 『めざせ日本一 水島そごう丸』
 「いま言われれば、ワンマン体制の象徴みたいな言葉ですが、疑問に思う社員はいませんでしたね」。開店当時の社員は言った。
 この前夜祭では、太鼓が打ち鳴らされるなか、水島氏らそごう幹部と一般の組合員が「必勝」の鉢巻きとはっぴ姿で肩を組んで、「いざ勝たん」と声を上げた。
 中堅社員の一人はこう話す。
 「僕は中央大出身ではないし、労組幹部の経験もない。だからこそ、水島さんや取り巻きに逆らえるわけがなかった。でも、そごうだけが特別なんですかね。ほかの会社は、コネ入社や社内閥がないと言いきれるんでしょうか」

【迷走・錦糸町出店】


再開発の“夢”ほんろう
 「金融機関との問題があって、資金調達がうまくいっていません。支払いを延期します」
 東京都墨田区の繁華街、錦糸町への出店を決めていたそごうが、地元の再開発組合に負担金の滞納を通告してきたのは平成五年一月のことだった。
 組合では既に施工業者を決め、古い建物の取り壊しも始めていた。そごうは「何が何でも出店する」と弁明したものの、突然の通告に組合はがく然とした。二年半以上にわたって続く錦糸町そごう出店をめぐる“迷走”の始まりだった。

 採算を度外視してまで拡大路線を続けたそごう。だが錦糸町については「建物を買ってまでは採算が取れない」として、いったんは出店を断っていた。それが昭和六十三年一月、一転して出店を決定。「責任をもって事業を行うという形が欲しい」という組合側の求めに応じ、そごうは商業施設の約四〇%を二百四十億円で購入、残りを共同事業者の日本生命から賃貸することで出店に踏み切った。
 もともと錦糸町については「それなりの店にすれば利益は出る」と踏んでいたが、組合関係者は「なかでも水島(広雄・元会長)さんが乗り気だったと聞いた」と明かす。
 平成二年三月、再開発組合が正式に立ち上がった。そごうも手付金の形で最初の負担金を支払い、再開発は表面上、すべてがスケジュール通りに運んでいた。だが、その陰でそごうの経営危機だけが深く静かに進行していた。銀行は融資に難色を示し始め、そごうは負担金を支払う余力を失っていった。
 「事態を動かせるのは水島広雄会長しかいない」
 そごうからの負担金滞納通告を受け、奥山澄雄・墨田区長(当時)は、東京・有楽町の交通会館にある会長応接室に水島氏を訪ねた。出迎えた水島氏は、こう言い放ったという。
 「責任は果たしますから心配しないでください」
 だが墨田区や組合が水島氏と交渉を続けている最中、予想外の事態が発生した。阪神大震災である。

 主力店舗の神戸店を被災したそごうは、その復興に全力を尽くすことを理由に、突然、岩村栄一社長(当時)名で、「錦糸町出店の辞退」を告げる上申書を組合に送付してきた。震災から一カ月後、平成七年二月のことだった。
 「差し押さえしかない」。組合関係者が資産差し押さえを決断するのに時間はかからなかった。
 差し押さえの動きを突きつけられた水島氏は七年五月に奥山区長を訪ね、「出店の方向でもう一度やってみたい」と伝えるしかなかった。組合の強硬な姿勢がようやく事態を動かしたのだった。
 四カ月後の九月。メーンバンクの日本興業銀行と、準メーンの日本長期信用銀行(現・新生銀行)のそごう担当者二人が奥山区長を訪ねて言った。「差し押さえによって、そごうの経営にどんな影響がでるか分からない。差し押さえを防ぐために融資はします」
 錦糸町再開発が最悪の事態を脱した瞬間だった。
 融資を確保した水島氏はその数日後に奥山区長を訪ね、「男と男の約束が守れた」とはしゃいだ。しかし同席した区職員らは、そごうの二転三転した態度と、深刻な資金繰りの実態をかいま見た現実感から、はしゃぐ水島氏の姿を冷え冷えとした気持ちで見つめていたという。
 「再開発は多くの人たちの夢」−。再開発事業に携わった人々は事業をロマンにたとえる。さまざまな地域の再開発を自らの拡大戦略に利用してきたそごうは、そうした人たちの夢をかなえてきた存在だった。それだけに、バブルが弾けて経営がひっ迫したそごうは、逆にそうした夢をもてあそぶ存在になっていた。
 平成九年十月、難産だった錦糸町そごうは最後の新規店としてオープンした。

【出店競争の虚妄】“百貨店離れ”予想できず


 「お買い物はそごう」
 大阪府堺市の南海高野線中百舌鳥駅前。約二万五千平方メートルのだだっ広い空き地に、一枚の立て看板だけがぽつりと残されている。
 バブル全盛期、そごうにとって最大のライバルは西武百貨店だった。中百舌鳥では関西国際空港の開港効果を当て込み、昭和五十七年に始まった市などの区画整理事業で、両百貨店が出店を争った。
 「大都市以外だと、どこに行ってもぶつかるのは西武。高島屋や三越のように伝統のブランドだけでは勝負できない新興勢力にとって、店舗の数や豪華さが生命線だった」とそごう幹部社員。
 中百舌鳥ではいったん、西武がコンペ(設計競技)に勝利、一歩先を進んだ。それでも周辺の土地を先行取得していたそごうは負けてはいなかった。「お互いに用地内に自社の看板を掲げて、縄張り争いのようになった」。仲介に奔走した堺市の担当者は振り返る。
 バブル崩壊の影がさしたのは平成四年。西武は「業績悪化」を理由に撤退を表明した。そごうにももはや体力はなかった。
「ちょうど東京の錦糸町に出店しようとしていた時期。中百舌鳥まで出していたらその時点でつぶれていた。とにかくストップするしかなかった」とそごうの元幹部は話す。
 堺市の担当者は今、空き地の航空写真を見てこうぼやく。「いくら広い道ができても、建物がなければ街づくりはできない」。堺市には広大な夢の跡だけが残された。

 同じ大阪。JR茨木駅前(茨木市)の日本たばこ産業(JT)の工場跡地で今、巨大な複合商業施設の建設が進んでいる。
核になるのは百貨店ではない。大手流通グループ「マイカル」(本社・大阪市)の商業店舗「ビブレ」だ。
 「あそこに出店するのは、大阪店で苦戦を続けていた水島(広雄元会長)さんの夢だったんですが…」(そごう元幹部)
 もともとこの土地では、平成三年にそごうがJTとの間で出店契約を結んでいた。「売り場面積八万五千平方メートルの国内最大級の百貨店になるはずだった」(同)
 しかし、平成七年、そごうはここでも経営悪化や阪神大震災による神戸店の打撃で出店を断念。代わりに名乗りを上げる百貨店もなかった。
 JT関係者が言う。「今となっては、百貨店よりも大型スーパーや複合施設の方が集客力がある。そごうさんが撤退してくれたことは不幸中の幸いだった」
 バブル崩壊以降、百貨店業界はゼネコン業界などと並んで構造的な不況産業といわれるようになった。
 「そごうだけが苦しんでいるのではない。洋服、家電、食料品…。物があふれる日本で、百貨店でなければ買えないという高級品がどれだけありますか。郊外の量販店や安売り店に向く客足を取り戻さないと」。現役の百貨店の役員はこう分析する。

 「そごうと西武は異質。正直言って、百貨店として学ぶものは何もなかった」。ある大手百貨店の幹部は、こう言い切る。
 「一円、二円を積み上げていく。これが小売業である百貨店経営の基本。『水島そごう』が席巻した時代、このことがおろそかになっていた」
 しかし、東京では今も、そごうと西武が繰り広げた「SS戦争」並みの百貨店間の客の取り合いが続いている。池袋では「東武」と「西武」。新宿は「伊勢丹」と「高島屋」。いずれも水島氏が実践した巨艦店舗で豪華さを競っている。
 「みなさん、いろいろなことを言うけど、水島さんが進めた(大規模な)千葉そごうや横浜そごうの成功が、業界に大きなインパクトを与えたことは間違いないはずだ」。そごうグループの役員は悔しそうに言った。
 そのそごうは今、ライバルだった西武百貨店の元会長の和田繁明・特別顧問のもとで経営再建を進めている。阪急と伊勢丹はファッション分野で包括提携、高島屋と三越は提携強化…。業界再編は「SS」だけの話ではない。
 「再編の引き金もそごうと西武がひくことになったんですかね…」。そごうの元役員は言った。

ブランドはなぜ墜ちたか「そごう」3

【シドニーの挫折】巨額損失生んだ海外進出

Barcelona_2  今世紀最後の五輪開催にわくオーストラリア・シドニー。その中心部に、四階建てのショッピングビル「ザ・ギャラリーズ・ビクトリア」がある。タウンホール駅の真上にあたり、市役所や老舗(しにせ)ショッピングセンターと向かい合う絶好の立地。在留邦人の表現を借りれば「日本なら銀座四丁目にあたる一等地」だ。
 完成したのは今年八月末。五輪の開幕にあわせて、飲食店、ブティックやカフェなど六十店近くが出店予定だったが、結局十二店舗しか間に合わなかった。
 実は、ここに“シドニーそごう”ができるはずだった。
 「土地、建物の五〇%は今も関連の現地法人が地権者で、うちは地代を受け取っている立場です。経営破たん後の社の方針に従って、今後売却される予定ですが…」
 そごうの関係者は、こう説明する。
 現地法人とは、そごうグループの海外事業専門の関連会社「そごうインターナショナルデベロップメント」(SID社=本社・大阪市中央区)が昭和六十三年に一〇〇%出資して設立した「バローハム」である。
 平成元年、敷地約八千平方メートルをゼネコン準大手の熊谷組と五〇%ずつの出資で購入した。しかし、バローハムの損失は平成八年までになぜか二百七十七億円に膨らむ。が、「事業を中止すればさらに損失は拡大する」と、五輪特需をあてこんで計画推進をはかったものの、十年には熊谷組が「持ち分の四千平方メートルを売却、撤退した」という。
 結局、地元の土地信託会社が四階建てのショッピングビルを建てた。

 「えっ、そごう側にそんなに損失が出ていたんですか。オーストラリアだけで」。熊谷組の関係者は驚きを隠さない。
 シドニーの一等地といっても、土地の購入費は東京、大阪の繁華街に比べればはるかに安い。「シドニーで三百億円もつぎこめば百貨店くらい建つはずでしょうに…」
 二百七十七億円という損失額は、SID社の出資による他の関連会社の損失と比べても突出している。
 前々回のバルセロナ五輪にあわせ、スペイン・バルセロナにホテルとデパートを出店し、その後、経営不振で閉鎖した「そごうエスパーニャ」(バルセロナそごう)の損失は三十六億円。実に約八倍である。

 「水島(広雄元会長)さんは勲章と五輪が好きなんだよ」。そごうに長年出入りした業者は、こう言って笑った。
 各地のそごうで開催された名物企画「大バチカン展」の成功で水島氏は昭和五十七年、ローマ法王からシルヴェステル勲章(騎士団長級章)を、さらにバルセロナ店の出店では、山田恭一前社長(七二)とともに、スペインからイサベル・カトリック・女王エンコミエンダ勲章を受章している。
 水島氏は、広島アジア大会後の経済セミナーでは「広島五輪も夢じゃない。生きているうちに実現することを念願している」と語るなど、五輪への執着ぶりを吐露している。
 「勲章ほしさというのは冗談だけど、金は一歩海外に持ち出すと人目がなくなる。現地有力者との交際費など、相場のわからない金が動かせるからね。実際にジャカルタ出店の際は多額の金を現地政権に献金したとも聞いた。また水島さんはパリに口座を持っていたとも聞いているが…」

 グループの海外事業展開の不可解さは、そごう関係者が困惑の表情を浮かべて話す言葉に端的にあらわれている。
 「バローハムに関する現段階の損失総額は勘弁してください。地代収入を差し引いても、平成八年当時よりさらに膨らんでいて、売却しても補てんは無理な規模です。損失が巨額になった理由ですが、海外事業の経過や金の流れなどはわれわれではわからないんですよ、旧経営陣でないと…」

【海外展開】巨額債務残し全面撤退


Chiaox  十年ほど前、トルコの首都アンカラで、そごうの水島広雄社長(当時)は、トルコ駐在の日本大使とひざを突き合わせていた。
 「イスタンブールに出店しようと思っているんですが」
 そう話す水島氏の隣には、東南アジアなどで大使を務めた元外務省幹部が座っていた。「相談にのってやってほしい」。元外務省幹部はそごうの顧問。「水島人脈」の一人だ。
 「それにしても、なぜ、トルコなのか」。大使は首をかしげざるを得なかった。「日本人観光客が増えつつはあったが、国民の所得は高くない。値の高いものは売れないんです」
 しかも水島氏らが候補地にしていたタクシム広場周辺では「日本の百貨店が高層ビルを建てる」という情報がいち早く流れ、現地の新聞は反対運動の様子を報じていた。
 「本当にトルコで採算がとれるんですか。慎重にした方がいい」
 大使の言葉に、水島氏は「そうですか」と答えたが、あきらめた様子はなかった。調査費などに億単位の金をつぎ込み、結局、プロジェクトを断念したのはバブルが崩壊した数年後のことだ。この“幻”の計画に絡む損失は約六十五億にのぼるとされ、和田繁明・特別顧問ら現経営陣が、賠償請求査定の裁判を申し立て、水島氏らの責任を追及する見通しになっている。
 「でたらめな計画ですよね。ジャパンマネーが強かったとはいえ…」。そういう計画があったことを最近知った社員はあきれたように話した。

 そごうの海外進出は昭和五十九年のタイそごうに始まる。以後、香港、シンガポール、台北、ペナン(マレーシア)、インドネシア、エラワン(タイ二号店)と続き、平成四年にロンドン、五年にバルセロナと欧州にも出店した。後に欧州からは撤退したが、十一年初めには世界に十四店舗があった。
 こうした海外事業展開を総括したのが「そごうインターナショナルデベロップメント」(SID社)だった。
 同社は千葉そごうの子会社のひとつ。「そごう本社からの保証を含む融資の突出ぶりはひどい」と、そごうの経営責任を追及する株主オンブズマンの公認会計士らは指摘する。
 SID社は平成元年設立。資本金百五十五億三千三百五万円。山田恭一前社長らが役員に名を連ねる。
 有価証券報告書によると、そごうからの保証を含む貸付金は平成四年二月期で約六十五億九千万円だったのが、翌五年二月期には三百六十三億二千五百万円に急増。十二年二月期には千三百六億六千六百万円にも膨れ上がった。すべての子会社への総貸付残高七千三百八十七億三千百万円の中でも最高額だ。
 さらに昨年秋、そごうのメーンバンクの日本興業銀行から、そごうの連帯保証でSID社に二百七十七億円以上の巨額の融資が行われ、SID社は同額をそごうに債務返済、そごうも、ほぼ同額を興銀に債務返済していた不可解な事実が明らかになっている。
 巨額の金が一巡しただけで、債務がSID社に付けかえられた形だ。「そごうの連帯保証が生じたため、興銀からそごうへの多額の無担保融資の一部を有担保に換えるなどの措置ではないか」と公認会計士らは指摘する。

 「そごうがSID社に貸し付けてきた資金調達を一元化するためという理由で受けた。融資に対するそごうの保証も、物的担保がないという意味では同じこと」
 興銀はこのように説明するが、奈良そごうなどが興銀から融資を受ける際、そごうが、「貴行に一切ご迷惑をおかけしない」などと記した事実上の裏債務保証だった疑いのある「念書」を差し入れ、一昨年三月のそごう取締役会が一括して事後に「追認」していたことも分かっている。
 同様のあいまいな保証を避けた点については「銀行として好ましい形をとった」と説明は苦しい。
 関連会社の多額の損失は今年春になって突然明らかにされ、そごうの倒産の要因の一つになった。海外からは全面撤退が決まっている。
 破たん寸前のそごうの保証で融資を行った興銀関係者はいう。
 「甘いといわれればそれまでだ。が、銀行としては、まず破たんありきではなかったんだ」

【巧妙な“飛ばし”】架空取引で関連会社延命

 「会社を救うための巧妙な“飛ばし”だ」
 そごうの水島広雄元会長(八八)の経営責任を追及する市民団体「株主オンブズマン」の弁護士は、あきれかえった。
 「超音波」(本社・東京都港区)。この奇妙な名の会社が、株主オンブズマンの指摘する「飛ばし」の舞台だ。登記簿などによると、昭和三十五年、超音波による食器洗浄機の製作を目的に設立された。現在は工場排水処理機械などを販売している。
資本金は千二百万円。そごう前副会長の井上盛市氏(八七)が社長を務めている。
 「水島子会社の典型」(そごう元役員)との指摘もあるように、水島氏は株の約四〇%を所有する筆頭株主である。
 「そごうと関連会社は網の目のように複雑に絡み合っているので実態がつかみにくい。ひと握りの人しか全体像は知らない」。そごうの元幹部は説明する。
 平成九年、超音波の副社長(当時)が架空会社との取引をでっち上げ、そごうの手形約一億円をだまし取ったとして詐欺容疑で逮捕された。この事件によって、超音波とそごうの“不適切な関係”が明るみに出た。

 副社長は被告人席で「井上社長は(そごう−超音波間に)実際の取引はなかったことは知っていたと思う」と証言した。さらに「架空取引は社長の指示だった」と暴露したのだ。
 一審判決は、この証言を「信用性がない」と一蹴した。ところが、東京高裁は今年六月、副社長を有罪としながらも、「(架空取引の)事情を(そごう役員らが)認識していたとの疑いも払拭できない」として、実刑とした一審判決を破棄し、猶予刑とした。
 「この事件は超音波が副社長を告発する形で発覚したが、本来なら被害者のそごうが告発すべき話。この不可解さに引っかかった」。ある弁護士の指摘だ。
 取引の構図は、そごうが仲介する形で超音波に発注、そごうが代金支払いの手形を超音波に振り出す。もとより発注先は架空会社だから製品は納入されていない。
 「つまり超音波への支払いをそごうが肩代わりしていたということ」(そごう元役員)。それは、多額の負債を抱えた超音波の延命策だった。「どうしても“水島子会社”の超音波を倒産させたくなかったのだろう」と弁護士らは指摘する。
 高裁判決も「資金調達の手段として、実際の取引を伴わずに、そごうの手形が振り出され、運転資金などに充てられていた
との疑いは否定できない」とする。

 さらに弁護士は「飛ばしと思われる金の流れは、超音波の副社長が告発された平成七年がカギだ」と言葉を強める。
 前年、そごうにメーンバンクの日本興業銀行などから役員が派遣され、「それまで水島氏と一部の幹部しか把握していなかったそごうの経営実態が表面化する恐れが出てきた」。
 不自然な金の動きが浮かぶ。七年二月期に計約四十七億三千六百万円もあったそごうから超音波への貸付金は、九年二月期にはゼロになっている。一方、そごうは七年、「千葉そごう」にほぼ同額の約四十八億九千三百万円の貸し付けを行った。
 超音波の不良債権が千葉そごうに付け替えられた疑いがある、という株主オンブズマンの指摘に、そごう側もうなずかざるを得ない。
 「数字上では結局、超音波との取引は、千葉そごうが受け継いだとしか受け取れない」(そごう広報室)
 現そごう経営陣は二十六日、水島氏や井上氏ら旧経営陣三人に対して、約二十七億円の損害賠償請求を行うための査定を東京地裁に申し立てた。ついに、旧経営陣への民事責任の追及が始まった。

老害「私が抜てき、仕方がない」

 「今は人生八十年。自分の年から三十引いて、ちょうどいい」
 そごうの水島広雄・元会長(八八)が講演などでよく口にした言葉だ。幹部社員にもよく言った。この論でいくと、水島氏はまだ五十八歳。六十歳代の役員クラスだと三十歳の若者だ。
 「水島さんは本気でそう思っていた。『人生五十年の時代とは違う』と。破たんするまで経営の先頭に立ち続けたことは納得がいく」(そごう元幹部社員)
 水島氏の最大の罪は「後継者を育てなかったことだ」と、ほとんどのそごうの社員が口をそろえる。水島氏を「経営の神様」と信じていたそごうグループの役員でさえ、破たんの原因を問われて、一言だけ吐き捨てるように言った。
 「老害だった」

 バブル期。近畿にオープンした店舗の建設で、内装業者に支払った数百万円のうち五%程度がある役員に流れている、という情報が社内の一部に流れたことがある。
 内装業者の経営者は証言する。「要求されて支払ったのは事実。うちはほかの百貨店とも取引しているが、そういう体質はそごうさんだけでした」
 このことは、たまたま内装業者と親しかった水島氏の知人の耳に入った。知人から教えられた水島氏は「うーん」と考え込んだ末、一言だけつぶやいた。
 「そうか。でも、そういうやつがいても仕方ないだろ。私が取り立てたんだから」 元幹部社員は言う。「水島さんに興味があったのは自分の理論で『水島そごう』を日本一にすることだけで、細かいことには口出しをしなかった。そのため、一部の現場ではやりたい放題という土壌を生んでしまった」
 そんな体質がいやになって退職したという元幹部は話す。「一握りの連中が勝手に店をたたむたたまないの重要な話を進めていた。中には収支の不透明な売り場のまた貸し話も耳にした。水島さんが知っていたかどうかは分かりませんが…」

 そんな水島氏が、人事のことを口にした時期がある。
 「あの男だけは社長にしてはいけないんだ」
 昭和から平成に年号が変わる前後。水島氏はしきりに側近に言っていた。元幹部社員は「人事抗争があった」と話す。
 「あの男」とは山田恭一・元社長(七二)のことだ。
 水島氏は平成六年、経営悪化でメーンバンクの日本興業銀行と日本長期信用銀行(現・新生銀行)から役員を迎えて会長に退いた際、「お気に入り」の岩村栄一氏(五八)を後継社長に指名した。しかし、岩村氏が体調を崩したため、十一年に山田氏が社長に就任した。
 「人事畑を歩んだ山田さんの力は、銀行派遣の役員とのパイプも太く、相当大きな力になっていた」(元幹部社員)
 銀行の介入を嫌っていたとされる水島氏だが、このときは「山田社長」を認めざるを得なかったという。
 「ほかに有力な社長候補はそごうにいなかった。それに水島さんは会長である以上、トップとして実権を握っていけると思っていたんでしょう」。現役の幹部社員は話す。

 「今年もそごうから、お贈りしました。お気を悪くされませんよう…」
 そごうの元幹部社員の長女で大阪市内に住む主婦(四二)は今年六月、こうしたためたはがきをお中元とともに送った。この時期、経営難に苦しむそごうは、大阪・心斎橋の大阪店の閉鎖を発表していた。「閉鎖する百貨店から、品物が届いては気を悪くされますから」
 この元幹部社員は憤る。「たとえ閉鎖するにしても、かき入れ時の商戦前に発表すれば、売り上げは落ちるし、顧客に迷惑もかかる。そんなことも分からない経営者しか残っていなかった」
 民事再生法の適用申請後、次期社長としてそごうに入った元西武百貨店会長の和田繁明氏(六六)はそごう再生のシンボルとして、大阪店閉鎖計画を撤回、建て直すことを表明した。
 「ふつうの経営者ならそう考える。そごう発祥の地で、手に入りにくい一等地。結局、そんなことも外部からの人に教えてもらうとはね…」。ほかの大手百貨店の元役員は話した。 

【地銀巻き込む水島戦法】

「再開発」・「興銀」・「じらし」
 広島銀=三百四十五億円▽千葉銀=二百八十五億円▽横浜銀=二百六億円▽西日本銀=百八十八億円▽福岡銀=百八十四億円…。そごうグループが四月、金融機関に債権放棄を要請した段階での融資残高だ。地方出店にも積極的だったそごうは、地銀、第二地銀計三十九行からも莫大(ばくだい)な資金を借り入れていた。総計は三千四百七十億円余り。メーンバンク興銀の貸付残高にほぼ匹敵する額にのぼる。
 なぜ、地銀、第二地銀からこれほど多くの資金を調達できたのか。地銀関係者はナゾを解くかぎを「再開発、興銀、そしてじらしの三つ」と指摘する。

 地方都市の再開発事業は、ほとんどがその地域の経済浮揚をかけたプロジェクトだ。そごうは、再開発計画に積極的に参画、出店計画を進めた。特に百貨店業界関係者から採算性を疑問視された横浜そごうの出店(昭和六十年)を成功させたころから、自治体関係者の“水島(広雄・元会長)もうで”が活発になったという。
 「全国ブランドの『そごう』が地方都市に来るというのは大きな魅力。誘致に成功すれば再開発の目玉になり、話題にもなるので力が入った」と自治体幹部は振り返る。
 行政サイドが再開発計画に力を入れれば入れるほど、「融資しやすかった」と元地銀幹部。「地銀の使命の一つは『地域経済のけん引』。行政が全面的に旗を振って進める再開発ともなれば『公共性重視』の大義名分が立つ。だから、こちらとしても仕事はやりやすかった」(元地銀幹部)

 そごうが出店時に地銀を巻き込むための“武器”になったのは、メーンバンク・日本興業銀行の存在だった。元そごう幹部は「興銀の融資を取り付けているというだけで、地銀など金融関係者は態度が違った」と証言。
 地銀元幹部は、「自治体の再開発のテナントとして進出するそごうのバックには、戦後の社会基盤整備を担った国策銀行の興銀が常にいた。地銀にとってはこの関係だけで、融資のための十分すぎるほどの信用力だった」という。
 さらに「興銀の融資審査は日本一厳しい」という金融界の定評が、そごうへの地銀融資を容易にさせた。「興銀が既に融資を決めていれば、わざわざ審査なんてしない。フリーパスのケースがほとんどだった」と都銀幹部。地銀OBは「小さな地銀が少ない人手を割いて、プロジェクトのあら探しをすれば、もうけ話を逃すだけ。手間ひまかけて損を出すだけだ。そんな意味もないことするより、興銀=即OKが原則だった」と述懐する。
 それほど興銀の存在は、そごうにとって好都合に作用した。

 地銀などとの関係に、水島氏が使ったのは「じらし」の手法だった。
 再開発へ参画が決まっても、「そごうからの接触を遅らせることで、地銀側をじらして、有利な条件を引き出す戦法だった」(元そごう幹部)
 この手法はかなり効果があったらしく「『そごうさん、〇〇の再開発事業の件ではウチをお忘れなく』と地銀側が出向いてきたことが何度もあった」(同)という。
 興銀と日本長期信用銀行(現・新生銀行)を競わせたのと同様に、水島氏は地銀をも掌中に収めようとした。
 金融機関の元首脳が重い口を開いた。
 「地銀をじらし、その上、興銀や都銀の名を出してプレッシャーをかける。地銀にとって、そごうのような全国レベルの企業との取引はおいしい案件。だから多少のことは折れる。水島さんは自分の有利な条件まで誘導する術にたけていた。これが水島さんの老獪(ろうかい)さというか、水島マジックの一つだったのかな…」

【バブルとともに去りぬ】明確な計画なき商圏防衛


 「これで区長との男と男の約束が果たせた」
 平成七年九月。東京都墨田区の墨田区役所に奥山澄雄区長(当時)を訪ねた水島広雄・元会長(八八)は、満面に笑みをつくった。
 銀行から融資を止められ、七カ月前に一度は錦糸町そごう(東京都墨田区)の出店断念を通告。だが滞納していた負担金回収のため、区や再開発組合が資産差し押さえに動いたことで事態は急変。この日一転して出店を告げたのだった。
 東京の下町の繁華街、錦糸町への出店が正式に決まったのは昭和六十三年一月。翌年の暮れに東証平均株価は三万八千九百十五円という史上最高値をつけた。まさにバブル絶頂への過程で錦糸町への出店は決まった。
 ところが、株価は平成二年一月から急落。バブル崩壊の予兆だった。
 これに呼応するようにそごうの経営も迷走を始めた。新規出店した土地の含み益で累損を一掃するという“水島マジック”も、地価の下落で不発。消費低迷から本業も業績が伸び悩み、銀行も融資に難色を示し始め、バブル期に決めた計画をそのまま遂行することができなくなっていった。錦糸町そごうは最終的に平成九年十月にグループ最後の店としてオープンしたが、計画のまま出店できないところも少なくなかった。

 神奈川県相模原市。五十万人以上の人口を抱える相模原市内の主要駅の一つ、JR橋本駅にそごうの出店が決まったのは平成元年十月のことだった。中心市街地がないため「“へそ”のない町」といわれる相模原市のなかにあって、橋本駅周辺は中心市街地として発展する可能性を秘めていた。JRの横浜線、相模線、そして京王線の路線延長が実現すれば、新宿まで乗り換えなしで行けるキーステーションとして発展が約束される。
 橋本駅前再開発準備組合が行ったキーテナント選定のコンペには十四社が参加。最終選考に残ったのは近鉄百貨店、京王百貨店とそごうの三社だったが、そごうが提示した賃貸料は坪当たり八千円以上と、近鉄の提示額の実に二倍。そごうが選ばれたのは当然の結果だった。
 しかし組合側はそごう出店に不安をもっていた。
 当時、横浜線で三駅先の八王子では八王子そごうが営業していた。京王線が延伸すれば、多摩そごうがある京王多摩センター駅ともわずか四駅しか離れていない。
 「そごうは、なぜ橋本に出店するのか」。その疑問が解けず、組合は選定後も何度となく、出店の意思を確認した。だが、東日本の新規出店を担当していた中沢幸夫副社長(当時)の答えは一貫して「そごうが出店しなくてもほかのどこかが進出する。だったらそごうが出店した方が得でしょう」。商圏防衛のためだけに出店を決めたのだった。

 橋本での計画とほぼ同時期、そごうは南大沢駅(東京都八王子市)の開発に合わせた出店計画も進めていた。南大沢は多摩センターと橋本の中間。さすがに「なぜ、あんなところにまで出店するんだろう」と疑問を感じた水島信奉者も少なくなかったが、表立って反対の声を上げることもなく、平成四年六月、南大沢に柚木そごうがオープンした。
 だが、多摩ニュータウンの人口が計画通り増えないこともあって、売り上げは伸び悩んだ。当時、柚木そごうに勤務していた幹部社員は「毎日が針のむしろだった」と振り返る。結局、柚木そごうはわずか二年あまりで閉店。拡大路線を続けてきたそごうにとって初の撤退だった。後には違約金や内装の原状復帰費用など約百八十億円もの負担だけが残った。
 そごうは橋本への出店も五年八月に凍結し、その三年後に出店契約を解約。多摩店も今夏に民事再生法を申請後、閉店を余儀なくされた。採算を度外視し、新規出店を続けることで守ろうとした多摩ニュータウンの商圏。ここにはそごうの店は一店も残っていない。
 当時、そごうとの交渉に携わった橋本駅前再開発の担当者が振り返る。「そごうには商圏人口などを計算した明確な出店計画はなかった。あったのは他店に対する危機感だけ。ブランド力がなく、まともに戦ったら競争には勝てないことを知っていたのは、だれよりもそごうの社員だったのかもしれません」

【和田体制発足】再建へ“大リストラ宣言”


 三十八年続いた水島広雄・元会長(八八)の拡大政策を、民事再生法の適用という形で断ち切られた水島そごう。一兆八千七百億円にも上る負債を抱えたグループの再生は、かつてのライバル西武百貨店から、再建請負人といわれる和田繁明氏(六六)を特別顧問として迎えて始まった。
 「井の中の蛙(かわず)」
 「指示されなければ何もしない」
 「積極的、建設的な意見を言わない」
 和田氏のそごう社員評価である。幹部社員はこう反応した。
 「終戦の玉音放送を聞いたようだ。今までの自分たちが間違っていたとは。これからどうなるのか…」
 和田氏は昭和三十二年に西武百貨店に入社。四十四年には三十五歳の若さで取締役に就任。西武池袋店を売上高一位の店舗にした実績から、西武グループの西武レストラン(現・西洋フードシステムズ)の社長に出向し、会社更生法の適用を申請した同グループの牛どんチェーン・吉野家を再建。
 バブル崩壊後の平成四年には、特別背任事件などで経営危機に陥った西武百貨店の会長に就任。さらに社長となって七年度決算では、黒字化を果たした、文字通りの再建請負人だ。

 そごう再生には和田氏に加え、西武百貨店元会長の米谷浩氏(六六)も顧問として参画。このほか西武百貨店の子会社「ミレニアム企画」から元同百貨店の取締役三人を含む幹部六人が再建計画策定で二人をサポートしている。
 ライバル西武百貨店からの助っ人に、そごう幹部は「これまでだったら考えられないことだ。メーンバンク・興銀の意向」と言う。
 百貨店業界に詳しい関係者が解説する。
 「九月二十九日に興銀と、西武百貨店のメーンバンクである第一勧銀が富士銀と統合して『みずほファイナンシャルグループ』になった。和田氏投入は興銀、第一勧銀の思惑が一致した結果だ。興銀はそごう問題を早期に決着させたい気持ちが強い。
一方、第一勧銀も西武百貨店処理で、不採算店の整理統合などの作業を残している。そごうと西武の良いところだけ残すことができれば、年間二兆円の超優良百貨店が出来上がる。和田氏の起用は、その布石なのだ」
 別の百貨店関係者は「業界では『器のそごう、商品開発の西武』といわれる。そごうは店舗は立派だが、中身(商品)は業者や問屋任せで全くダメ。西武は無印良品など商品開発能力は高いものの、店舗の立地が今一歩。双方を結びつければ強力な百貨店ができる−というのは業界で何度もささやかれた話だった」という。
 和田氏本人は、そごうと西武との提携や統合について「一切白紙。そごうを再生させるのが第一。そごうの再生のために西武を使うだけ」と明言は避けているものの、将来何らかの形で提携する可能性が強い。

 和田氏は西武百貨店再生の際、「利益を出す仕組みを作るという私の方針に反対する社員は辞めてもらう」と徹底的なリストラを実施。平成元年のピーク時に一万九千の社員を、社長就任後二年間で一万三千人まで削減した。さらに子会社を大胆に清算したり、やる気のない役員を「戦犯」と名指しで批判、降格人事を乱発するなど、「ヒトラー」と恐れられたという。
 そごうの再建でも、和田氏は社内報「新生『そごう』のために」の第1号で、「私は率直に言って、今、火中のクリを拾ったという思いでいっぱい」、第3号では、そごうの現状を「がん細胞が増殖、転移拡散して手術などとうてい不能の状況」と痛烈に指摘した。
 そのうえで「社員全員が大きな痛みを感じなければ明日のそごうはない」とし、再生について「労働条件、待遇はもちろん、業務の進め方、勤務態様等、常にこれからは痛みを自らが感じることの連続」と言い切り、店舗の閉鎖や大幅なリストラの断行を示唆した。
 「半分以上の店が業態変更や閉鎖を迫られる」「人員は四割削減、給与も大幅カット」…。再建請負人・和田氏の容赦ない“大ナタ”が振り下ろされ始める中、幹部社員は「残った『そごう』の名のもと、われわれは和田さんの手腕を信じ頑張るしかない」とつぶやくだけだ。

【そして再建へ】残された“誇り”こそ財産


 そごうの新入社員教育に使われた小冊子に、こんな一文がある。
 「これからの歴史は、私たち自身の手にかかっています。私たちは、そごうの歴史が伝える顧客奉仕の精神を体得し、店花ダリアの花ことば『親切・感謝』をモットーにお客さまに接し、そごうの象徴『飛躍の像』(大阪店御堂筋側・二科会藤川勇造氏制作)のように、前途にかぎりない希望を抱きながら、世界一の百貨店を目指し、各自の業務に励みましょう」
 冊子が求める通り、そごう社員の勤勉さを指摘する声は少なくない。例えば昭和六十年の横浜そごう開店前後。百貨店業界関係者はその様子をこう証言する。「開店前は、中堅社員らが午前九時ごろ出勤して翌日の午前四時ごろまで、文字通り死にもの狂いで働いていた。残業手当はほとんどなく、給与は高島屋、三越の六割程度。それでも頑張ればいつかは横浜高島屋に追いつき、追い越す日がくる−と信じて疑わなかった」
 横浜店開店直後、そごうは日本一の売り上げを記録した。
 それから十五年。日本一のそごうグループは一兆八千七百億円の負債を抱え、民事再生法適用を申請し、事実上倒産した。
 「これまでわれわれは苦しい時代を乗り切ってきた。今回もきっと乗り切れる」。幹部の一人は自身に言い聞かせるように話す。

 そごうはもともと知名度の低い三流百貨店だった。大阪・心斎橋のそごう大阪店と道をはさんで対峙(たいじ)する大丸大阪店。店舗の規模はほぼ同じにもかかわらず、そごうの売り上げは大丸の半分。三流と一流が向き合う光景である。
 「閉店後、盛り場に繰り出す大丸社員を横目に、そごう社員は隠れるように家路を急いだものです」とそごうOB。
 そごうマンたちが胸を張れる日は五十八年にやってきた。東京都八王子市に開店した八王子そごうが、大丸八王子店の三倍の売り上げを記録、大丸を撤退に追い込んだのだ。当時を知るそごう関係者らは「歴史的勝利だった」と述懐する。「大阪勤務の経験がある人たちの感慨はひとしおだったようだ。給料は安くても、やれば勝てる。胸を張ることができた」
 現在のそごうは特別顧問の和田繁明・元西武百貨店会長(六六)のリーダーシップのもと、再建への準備を進めている。現職幹部が言う。
 「債権放棄で再建を目指していたころ“税金泥棒”とバッシングを受け、そごうマンとしての誇りを失いかけていた。時代は変化するが、商いの原点は変わらない。最近やっとそう思えるようになってきた。自らの意識改革は行わなければならないが、『そごう』の名前が残り、“そごうマン”のプライドもわずかだが残ったと思う」

 そごう社員は、「まるちきり」といわれる社章を胸に付け、時代を駆けた。まるちきりとは、その形から「エンドレス」「めでたい」を意味するという。
 しかし今、まるちきりを胸に付ける社員は少ない。「水島(広雄・元会長)時代から解き放たれたばかりで、社章をつけて歩くほど自信を回復していないという表れかもしれない」と若手社員は苦笑する。
 幹部の一人がいう。「われわれが商いの原点に立ち返り、そごうを再び立ち直らせることができれば、“そごうマン”としてもう一度胸を張れる時代がくる。そう信じたい」
 百貨店。さまざまな人や家族連れが集まる空間だ。百貨店のブランドは、言ってみれば日本人の生活水準を示すものでもある。バブルに乗って拡大を続け、はじけて倒れたそごうの構図はバブルに踊らされた日本人の姿そのものでもあった。
 そごうが再生し、土地や建物などの資産ではなく、商品力、販売力という「百貨店本来の魅力で再び客を取り戻すようになれるか否か」は、いまの激動の時代にあって「日本と日本人が自信を取り戻せるかどうか」とイコールといえるだろう。

(おわり)

そごう民事再生法申請

株式会社そごう
(百貨店。資本金144億4044万円、大阪府大阪市中央区心斎橋筋1-8-3、山田恭一社長、従業員1901人)ほかグループ21社
1830年(天保元年)、「大和屋」の屋号で古着屋を目的として創業
1919年(大正8年)12月、(株)十合呉服店として法人に改組
1949年(昭和24年)、大証1部に上場
1961年(昭和36年)、東証1部に上場
1969年(昭和44年)4月、現商号に変更
2000年(平成12年)7月12日、東京地裁へ再生手続開始の申立て。負債総額は、グループ22社合計で2兆7358億円だが、グループ間の借り入れ保証を相殺して約1兆8700億円。
同時に再生手続開始の申立てをした本体以外の21社については、
◆(株)千葉そごう(千葉県千葉市)負債総額4054億円→(株)茂原そごう
◆(株)新千葉そごう(千葉県千葉市)負債総額953億円
◆(株)柏そごう(千葉県柏市)負債総額1238億円
◆(株)廣島そごう(広島県広島市)負債総額3282億円→(株)装苑
◆(株)廣島そごう新館(広島県広島市)負債総額545億円
◆(株)札幌そごう(北海道札幌市)負債総額496億円→平成13年2月13日
東京地裁が再生手続廃止決定→平成13年3月15日東京地裁が破産宣告
◆(株)黒崎そごう(福岡県北九州市)負債総額321億円→平成13年3月12日
東京地裁が再生手続廃止決定→平成13年4月18日東京地裁が破産宣告、破産管財人は監督委員の弁護士が選任
◆(株)船橋そごう (千葉県船橋市)負債総額666億円→平成13年4月23日
東京地裁が再生手続廃止決定→平成13年5月23日破産宣告
◆(株)徳島そごう(徳島県徳島市)負債総額662億円
◆(株)八王子そごう(東京都八王子市)負債総額503億円
◆(株)横浜そごう(神奈川県横浜市)負債総額1955億円→(株)アレックス
◆(株)大宮そごう(埼玉県大宮市)負債総額774億円
◆(株)豊田そごう(愛知県豊田市)負債総額496億円→平成13年3月12日
東京地裁が再生手続廃止決定→平成13年4月18日東京地裁が破産宣告、破産管財人は監督委員の弁護士が選任
◆(株)加古川そごう(兵庫県加古川市)負債総額361億円→平成13年4月10日
東京地裁より再生手続廃止決定、5月11日破産宣告、破産管財人は監督委員の弁護士が選任
◆(株)奈良そごう(奈良県奈良市)負債総額1231億円→平成13年3月12日
東京地裁が再生手続廃止決定→平成13年4月18日東京地裁が破産宣告、破産管財人は監督委員の弁護士が選任
◆(株)呉そごう(広島県呉市)負債総額236億円
◆(株)西神そごう(兵庫県神戸市)負債総額240億円
◆(株)川口そごう(埼玉県川口市)負債総額736億円
◆(株)福山そごう(広島県福山市)負債総額742億円→平成13年2月13日
東京地裁が再生手続廃止決定→平成13年3月15日東京地裁が破産宣告
◆(株)小倉そごう(福岡県北九州市)負債総額673億円→平成13年3月12日
東京地裁が再生手続廃止決定→平成13年4月18日東京地裁が破産宣告、破産管財人は監督委員の弁護士が選任
◆(株)錦糸町そごう(東京都墨田区)負債総額303億円→平成13年2月13日
東京地裁が再生手続廃止決定→平成13年3月15日東京地裁が破産宣告
2000年(平成12年)7月26日午後3時、再生手続開始決定
2001年(平成13年)1月31日、(株)そごう、(株)新千葉そごう、(株)柏そごう、(株)横浜そごう、(株)大宮そごう、(株)川口そごう、(株)八王子そごう、(株)千葉そごう、(株)西神そごう、(株)廣島そごう、(株)廣島そごう新館、(株)呉そごう、(株)徳島そごうの13社について、債権者集会で再生計画の賛成を得て、同日再生計画認可。

明治の新聞をにぎわせた十合呉服店の内紛

Gofukuten_2  負債総額1兆8700億円、金融関連を除けば戦後最大規模となった大手百貨店「そごう」(本社・大阪市)の経営破たん。国内26、海外14の店舗を持つ「そごう」グループが自主的な経営再建を断念し、民事再生法の適用を申請したことは、一企業の破たんというレベルを超えて大きな波紋を呼んでいます。約1万社といわれる取引企業への影響や雇用問題、地方経済への影響、さらには巨額の債務処理をめぐって数百億円規模で新たな国民負担が生じることも予想され、日本経済全体への波及も懸念されています。

 そごうは創業170年を誇る老舗。1830年(天保元年)、十合伊兵衛が古着屋「大和屋」として大阪・船場で創業、二代目伊兵衛が「吊りぎれ」(端裂)売りで成功し、1877年(明治10年)、大阪・心斎橋に「十合呉服店」を開いてから、有数の呉服店として大きく発展してきました。

 その発展途上の明治中期、「十合呉服店」の名が新聞をにぎわせたことがあります。1897年(明治30年)、三代目伊兵衛が店を合名会社化するに当たって行った経営改革をめぐり、店の主だった番頭たちが起こした「反乱」ともいうべき騒動です。

◇改革に不満、主だった番頭たちが「反乱」◇

 同年1月29日付の読売新聞に、「主家に反旗を翻へしたる呉服店員の陰謀顛末(てんまつ)」の見出しで全文60行に及ぶ長文の記事が掲載されています。

 「大坂に有名なる十合呉服店に長く勤めて居たる藤助事岡田次郎、利助事中川栄次の両人は先頃主家を去りて南区清水町中之丁ヘ合資会社播磨屋呉服店創立事務所と云ふを設け反旗を翻へして十合に対抗す意気込凄まじかりしが去廿五日両人は窃盗被告人として同店栄七事田中岩江は贓物(ぞうぶつ)寄贈被告人として大坂地方裁判所へ求刑せられ……」

 こんな書き出しで始まった記事は、「多年主家の恩露に霑(うるお)ひたりしものが何故一朝反旗を翻へさんとまで決心したるか」の顛末を詳報。翌2月11日まで、初回とほぼ同じ長文で計9回にわたって連載されました。

 連載によると、内紛のきっかけは、三代目伊兵衛が合名会社化に際し、創業以来の慣行であった「暖簾分け」制度の廃止を打ち出したことでした。当時の大きな商店と同様、十合呉服店では10年以上勤続し、忠勤を励んだ番頭には、暖簾分けと称して「十合」の印の下に店を開かせ、独立営業させる慣例がありました。ところが——。

 「昨二十九年六月上旬に至りて突然先祖代々の家例を廃し十年以上忠勤を励みたる者とても暖簾を分ちて独立営業させる事をせず一戸の家を主人より貸与へて月幾干(いくばく)かの給料を与へ日々店へ通勤すべき事としたり」

 「此大改革に遭ふて番頭手代の恐慌一方ならず……唯だ一個の通ひ番頭となりて一生お店(たな)の飼殺しとせられては迷惑此上もなき次第ならずや」

 暖簾分けの廃止は、江戸時代からの「大店=おおだな」が近代的な企業に変身するためのやむを得ない「手術」ともいえます。それに対する番頭らの「抵抗」は、改革を進めた三代目伊兵衛に対する「元来主人は信賞必罰といふことを知る器にあらず愛憎偏頗(へんぱ)に流るる傾きあり」との不満も加わって、大規模な「謀反」に発展しました。

 その中心になったのが、番頭、手代、丁稚たちからも信望厚かった藤助こと岡田次郎でした。伊兵衛に「暖簾分け廃止」の翻意を求めて聞き入れられなかった藤助は、いったん郷里に身を引いた後、新しい合資会社の設立を計画。資金主を確保した上で、店の主だった番頭たちにひそかに新会社への参加を呼び掛けると、28人がそれにこたえました。

 藤助らは新会社「播磨屋呉服店」の「出資社員契約要領」を作り、会社創立事務所も構えていよいよ、というところまでこぎつけました。しかし、この動きは土壇場で伊兵衛に察知されてしまいました。その結果、新会社設立の賛同者を切り崩されたばかりか、藤助ら中心人物は「窃盗」の嫌疑をかけられ、被告の立場に追いやられてしまったのです。

 連載の最終回2月11日付は、伊兵衛の談話を載せました。その中で彼は、自分の計画した改革について「出資社員の資格を与へて共に利益の分配を受けさせる事となしなば少額の資金にて通り筋へも出られず些少(ささや)かなる小売店にて終らんには勝るべし」と説明。この改革を「社会の進歩に伴ふ一の良法と信じたるなり」と述べています。さらに、「改革には藤助も無論同意」したのに、「吾が店に施すべき改革案を執りて却って自己が創立の材料に応用したることこそ返す返すも恨みなれ」と嘆いています。

◇破たんに至った強気の経営戦略◇

 連載には、反旗を翻した藤助らの裁判の結果や、彼らがその後どのような運命をたどったかは、残念ながら書かれていません。しかし、「大店」を近代化した三代目伊兵衛の強気の経営戦略は、その後、「そごう」の伝統となったようです。

 資料によると、十合呉服店は1899年(明治32年)に神戸支店を開いたのを始め、近畿各地に店舗を拡張。1918年(大正7年)に地上4階地下1階、エレベーター付きの大阪本店新店舗を完成させ、翌1919年(大正8年)には株式会社組織に改めて、大正、昭和の時代の荒波をくぐり、順調に成長しました。第二次世界大戦後は東京にも進出し、全国各地に多店舗展開して日本を代表する百貨店に発展。しかし、強気は「強引」と裏腹です。バブル崩壊とともに拡大戦略も崩壊し、ついに破たんに至りました。

 今、そごう破たんの一因として、百貨店の生命線である「人材の育成」がなおざりにされていたのではないか、との指摘があります。番頭たちの反乱を招いた三代目の強引ともいわれる改革手法に、その兆しを読み取るのは、うがちすぎた見方でしょうか。

水島廣雄 氏


  • Mizushima_5

    1912年4月15日京都府舞鶴市生まれ。元そごうグループ代表(本社会長・社長/グループ各社会長・社長・相談役)。元中央大学顧問(兼理事・評議員)。元東洋大学名誉教授(兼理事)。元大東文化大学理事。法学博士。1936年に中央大学法学部を主席で卒業後、日本興業銀行に入行。東北支店(当時福島市)に配属。1939年本店証券部信託課に転勤。融資課長、発行課長、証券部次長、中小工業部次長、特別調査室部長待遇考査役と歩み、その後、そごう副社長に就任。1953年に学位論文「浮動担保(フローティング・チャージ)の研究」で法学博士号を取得。第5回毎日新聞学術奨励賞受賞。この論文が1958年に「企業担保法」という法律に結びつく。中央大学では1963年から70歳の定年になるまで20年間、週2コマの銀行信託論を教えた。東洋大学では1956年から27年間、週5コマを教えた。なお、中央大学では理事長職・総長職への打診を9回断っている。2014年7月28日心不全のため死去。享年102。
    ●1958年 副社長就任
    ●1962年 社長就任
    ●1982年 (ヴァチカン最高位勲章受章)
    ●1988年 (経営者賞受賞)
    ●1988年 (ヴァチカン最高位勲章受章)
    ●1989年 (新技術開発財団会長就任)
    ●1990年 (近畿百貨店協会会長就任)
    (日本百貨店協会副会長就任)
    ●1993年 (ヴァチカン最高位勲章受章)
    ●1994年3月 会長就任
    ●1994年 (エンコミエンダ勲章受章)
    ●1998年 (レジオン・ドヌール勲章受章)
    ●2000年4月 会長(全役職)辞任

山田恭一 氏


  • Yamada

    1928年3月31日兵庫県生まれ。1952年京都大学農学部卒。同年そごう入社。以後20年間にわたり人事・労務畑一筋。元そごう社長。元そごうグループ経営会議議長。2010年7月2日肺炎で死去。享年82。
    ●1952年 そごう入社
    ●1970年 取締役
    ●1974年 常務取締役
    ●1976年 兼神戸店長
    ●1979年 専務取締役
    ●1988年 副社長就任
    ●1989年 そごうインターナショナルデベロップメント社長就任
    ●1993年 神戸店管掌
    ●1995年 神戸店復興本部長・海外事業専担管掌
    ●1997年 監査室管掌
    ●1999年1月 社長代行・営業本部長
    ●1999年4月 社長就任
    ●2000年7月 社長辞任

そごうフォトデータ

  • 十合呉服店 汽車博覧会記念はがき(明治)
    画像数894(2015年1月現在)・画像名・提供者名・旧店名表記※そごう画像掲示板倉庫