産経新聞取材班 2001.01
■【破たんした拡大路線】
“神様”がつくったバブル店
「自社しか知らず、偶像崇拝で井の中の蛙になっている皆さん」
経営再建のため、そごうに乗り込んだ次期社長の和田繁明・元西武百貨店会長(六六)は、社内報「新生そごうのために」でこう呼びかけた。
「指示しなければ何もしないと、外部の人々からそごうの社員への評価は低いのです」
これを読んだベテラン社員は全身から力が抜けるのを感じた。多くの社員同様、かつては水島広雄・元会長(八八)の「拡大路線」で日本一の百貨店になれると信じていたからだ。
ただ、和田氏の言葉に反発する気はないと、ベテラン社員はいう。「これまで水島さんのおかげで食べてこられたのは事実。神様だと思っていた。でも、今、下手なことをしゃべって、目を付けられたら立場を失う」。和田氏が言明する大規模なリストラが頭をよぎる。
和田氏は八月二十三日の記者会見でこう言いきった。「そごうの欠陥、欠点をはっきりさせていく」
約四十年にわたって君臨した水島氏は今年四月、会長を辞任、水島そごうは終焉を迎えた。グループ二十二社の負債総額は一兆八千七百億円にのぼった。
バブル最盛期の平成元年十月二日。水島氏は、真新しい白亜の建造物を満足げに見上げ、紅白のテープにハサミを入れた。同時にファンファーレと歓声が響き、無数の風船と紙吹雪が古都・奈良の秋空に舞い上がった。
グループ二十三番目の店舗として開店した「奈良そごう」。「エルメス」「ミラショーン」「バリー」など高級テナントが並ぶ一階の中央部には、法隆寺夢殿を模した金色の「浮夢殿」(うきゆめどの)が鎮座する。四階には、二十二カ国の人形が定時に踊る巨大な仕掛け時計。水島氏お気に入りの「神田やぶそは」など名店を集めた五階レストラン街には人工の川が流れ、同じ階の美術館入り口にはロダンの彫刻「オルフェ」が置かれていた。
開店式典に招かれた日本興業銀行の役員はその豪華さに心底驚いた。奈良市の人口は約三十五万人、県全体でも約百四十万人にすぎない。観光地ではあるが、それほど購買力が見込める町ではないだけに、来店するまでは「スーパーに毛が生えた程度の店」と思っていたからだ。
そんな役員に水島氏は満面の笑みを浮かべてこう説明した。
「どうせ作るなら立派なものを作ろうと思いまして。ただ世間の人には立派すぎると思われているでしょうな」
そごうグループの奈良への出店は、水島氏の強い意向で決まった。そごうの創業者である十合(そごう)伊兵衛の故郷が大和国十市郡十市村(現・奈良県橿原市)だったことにこだわったとされるが、むしろ、関東に比べて関西での店舗展開が遅れていたことが大きな動機だったようだ。
出店コンセプトには、水島氏らしいユニークな発想が随所に表れていた。
店舗の立地は、奈良最大の繁華街である近鉄奈良駅からは約二キロと遠く、最寄り駅からも徒歩で十分以上の距離。平城宮跡や奈良市役所に近いとはいえ、もともとは大半が農地で、「主要駅に隣接することが出店の最低条件」といわれる百貨店業界の定石からは大きく外れていた。
しかし、水島氏はこれを逆手に取った。千五百台収容可能な巨大な駐車場を併設し、「マイカーで通える郊外型高級百貨店」とうたい、「奈良、京都南部、三重西部の住民をターゲットに、大阪、京都に流出する年間千四百億円の購買力をストップする」とぶちあげたのである。
このスローガンが功を奏したのか、用地買収は一年ほどで終わり、地元商店と大きくもめることもなかった。文化財発掘調査で、奈良時代初めの悲劇の宰相「長屋王」の邸宅跡が出土し、予定が遅れたことは誤算だったが、地元自治体のバックアップもあり、大きな計画変更は免れた。
水島氏はよほどうれしかったのだろう。昭和六十三年九月の起工式では「売り上げは一銭たりとも県外に持ち出さず、利益を地元に還元する。地元法人の奈良そごうは奈良県民であり市民です」と胸を張った。
しかし、出店が円滑に進んだ最大の理由は、日本興業銀行、日本長期信用銀行(現・新生銀行)など金融機関から引き出した潤沢な資金だった。
用地買収にかかわった不動産業者はこう証言する。
「平均買収価格は坪百万円前後、当時としては破格だった。奈良市などから要請された歩道橋などの周辺整備にも快諾し、必要とは思えないデポ用地(商品集積地)までも買いあさっていた。羽振りが良く『大企業は違う』と感心していたのだが…」
開店までに投じた資金は用地買収だけで約三百億円、総額は八百五十億円にのぼった。開店当初の売り上げ目標が三百五十億円だったと聞いて、百貨店関係者は首をひねった。
「百貨店は利益率が低いので、自己資金ならともかく、年間売上額を超えるような店を出せば、利払いさえ困難なはず。どのような資金計画だったのか理解に苦しむ」
さらに、不動産の権利関係は複雑なまま放置された。建物は一部の地権者と共同所有。敷地は数十筆に分かれたままで、借地も多数含まれていた。しかも、各筆ごとに金融機関の担保が設定されていた。
ある金融機関関係者は登記簿をみて目を丸くした。「これでは店舗を売ろうとしても買い手はつかない。水島さんは、見栄えのする立派な店舗さえ完成すれば、後はどうでもよかったんじゃないか」
この証言を裏付けるように水島氏が奈良そごうに姿を見せたのは、開店から九年が経過した平成十年十二月の一回だけだ。
奈良そごうは七月十二日、グループ二十一社とともに民事再生法の適用を申請した。負債総額は千二百三十一億円。店舗閉鎖は免れたが、和田氏は「水島そごう」の体質をこう評した。
「巨大なカリスマの経営者の実に異常なマネジメントのあり方だった」
■【政界と太いパイプ】
「選挙と金」気軽に請け負い
「バブルがはじけなかったら、長銀(日本長期信用銀行)も潰(つぶ)れず、そごうも安泰でしたのに。政治が悪いのです。残念です」
そごうの水島広雄・元会長(八八)はこの夏、四十年来の知人にあてた手紙にこう書いている。
書道愛好家らしい達筆の数行に、知人は水島氏の「無念」を読み取る。「バブルを生み、日本経済を崩壊させたことに政治の責任はないのでしょうか。水島さん一人だけが“巨悪”にされてませんかね」
政治の力で、そごうの事実上の倒産はあっけなく決まった。七月十一日夕、亀井静香・自民党政調会長から当時の山田恭一社長(七二)に一本の電話が入った。「自主再建の努力をする気はないか。国民の支持と理解を前提とした再建計画でなければうまくいかない」
一度は金融再生委員会の主導でまとまりかけた銀行の債権放棄による再建が崩れた。自主再建を断念した四月、水島氏が会長を辞任した後、政治家と渡り合える役員はそごうにはいなかった。しかし、そごうと同様に多額の債務を抱えるゼネコンについては、新生銀行(旧長銀)があれほど嫌がった債権放棄に応じる可能性も報道されている。
「なぜ、そごうだけがだめだったのか。水島さんには、政治に裏切られた思いがきっとある。政治家の面倒だってよくみていたんです」。手紙を受け取った知人は話した。
昭和四十七年夏。東京・世田谷の水島氏の自邸に、自民党総裁選で敗れた大物政治家(故人)の秘書が駆け込んできた。
「先生、負けましたけど、頼みますよ」。総裁選前から約束していた献金の依頼だった。 日本興業銀行からそごうに転身した水島氏は、当時、社長就任十年目。そごう自体の経営は振るっていないとはいえ、すでに有力な財界人だった。中央大法学部で教べんを執っていたことも人脈を広げていた。
「分かりました」
秘書が拍子抜けするほど、水島氏はいとも簡単に答えたという。
「あのころ、百貨店の仕事は、政治や行政と切り離せなかった。全国のどこで市街地開発が計画されているのか、出店のときにいかに行政の許可をスムーズに得るか。政界に太いパイプを持つ『水島そごう』はうらやましかった」。ライバル百貨店の元役員は話す。
この時期、そごうは本格的な多店舗化の「第三次大そごう計画」を発表し、グループ五店目の「いよてつそごう」(松山市)をオープン。横浜、柏、広島などにも開店準備の法人を次々に設立していた。
大物政治家は生前、水島氏について、そごうを取材した出版社のインタビューにこうこたえている。
「気宇壮大に生きている財界人」
「百貨店でものを買ってくれるのは自民党だけではない」
水島氏の側近は何度もこの言葉を聞かされた。
実際、そごうの社長室にはさまざまな政治家や関係者が出入りした。
「ふん、ふん。なるほど」と水島氏が電話で選挙の話をしているので、相手先を聞いたところ、野党の大幹部だったこともあるという。
ある大臣経験者が初当選したときも、親族が社長室に駆け込んできた。関係者がこう証言する。
「『資金がないので協力してほしい』と言って、水島さんに頼み込んだ」
昭和四十九年に広島そごうが開店した前後には、地元選出の代議士がやってきた。
水島氏はこのとき、苦笑いしながら、一言だけ周囲に漏らした。「外遊するっていうから、飛行機代をはずんでおいたよ」かつて、総選挙のたびに、そごうの社員が四国に駆り出されるのが恒例になっていた。地元選出で水島氏の親せきにあたる衆院議員の応援のためだ。
この議員は昭和六十一年にそごうの顧問に就任。今年五月に辞任したが、昨年三月からの一年間で、横浜や千葉などそごう系列六店から計約千三百万円の報酬を受け取っていたことも判明している。
そごうの元幹部社員は言う。「そごう自体にはそれほど金はないけれど、献金は気軽に請け負っていた。政財界に幅広い人脈を持っていた水島さんと付き合うことで政治家の側にもメリットがあったんじゃないだろうか」
「人口が三十万人になるって、知事が言うんだよ」 バブル期の平成元年、東京・多摩ニュータウンに「多摩そごう」が開店する数年前。水島氏は、鈴木俊一都知事(当時)らと出席した会合からの帰りに、側近に言った。知事の言葉が出店を決意させる“殺し文句”になったという。
「水島さんの拡大路線ばかりが取り上げられるが、自治体や政治家に頼まれた出店も多かったんです」。そごうの幹部社員はこう振り返る。
多摩そごうは、グループ平均の約二万平方メートルを大きく上回る三万四千平方メートルの売り場面積だ。だが、ニュータウンの人口は二十万人を手前に思ったように伸びず、年間営業収支は十億円台の赤字。グループの足をひっぱり続け、水島氏が進めた拡大主義の負の象徴になった。
七月十二日に閉鎖になったとき、そごうの役員は言った。「都のニュータウン構想に基づいて店舗規模を組み上げたんだが…」
そごうグループの元幹部社員は、水島そごうの浮沈は政治とは切り離せない、と考えている。
「政治や行政が言ったことがすべてその通りだったら、そごうは倒産しなかった。誤りを見抜けなかったのが水島さんの経営責任なんでしょうか」
■【歴史の荒波】進駐軍接収で「復興」足踏み
「隣の大丸に比べて、そごうは昔から雰囲気的に見劣りしていましたよ」
「品ぞろえもよくない上に人(客)が少なくて、閑散としていましたね」
大阪の代表的な繁華街、心斎橋で、大丸と肩を並べて建つそごう本店(大阪店)。買い物客の評価は、経営が破たんする前から厳しかった。
しかし、建築家、村野藤吾氏(一八九一−一九八四年)の設計による昭和十二年完成のこのスマートな本店ビルこそ、そごうにとっては栄辱の歴史を刻み続けた中心地だった。
「そごうは、近代日本がなめた辛酸と栄光の歴史をなぞるように、発展、膨張し、そしてバブルとともに沈んだんです」
OBの一人は苦渋の表情でこう語った。
そごうの創業は天保元(一八三〇)年。大和(奈良県)出身の商人、十合(そごう)伊兵衛が大阪で開業した古手(古着)業「大和屋」(やまとや)にさかのぼる。
古着は当時、主力流通商品。大和屋は実直経営を展開し、幕末、維新の動乱も乗り越え、順調に明治の近代経営時代を迎えた。
明治初年。二代目伊兵衛が、それまでは臨時商品だった吊りぎれ(はぎれ)を京都で確保し、常時店頭に置いたことで業績は飛躍。西南戦争で官軍の拠点・大阪が軍需ブームにわいた際には心斎橋へ進出。同時に古手業も廃業し「十合呉服店」となった。
京都に本格的な仕入れ拠点を置き、神戸で洋反物を扱い、組織化を進めた「呉服店」は急ピッチで近代的な「百貨店」に変ぼうした。大正八年には百貨店としては日本で初めて外国製エレベーターを導入。さらにきめ細かな利益管理のため、分類別に棚卸しを行う「部類別損益計算」をいち早く採用するなど百貨店の最先端を歩んだ。
昭和十二年に建ち上げた高さ三十一メートル、地上八階地下三階の本店ビルは「ガラスと大理石の殿堂」と称された。
しかし、本店ビルの建設資金調達がそごうに大きくのしかかり、完成を二年後に控えた昭和十年、十合一族は所有株式の大半を新役員に譲渡、貴族院議員の板谷宮吉氏が取締役会長に就任し、同族経営時代を終えた。
「法人資本主義への移行は歓迎すべきことだったかもしれないが、直後にやってきた大戦の戦火と、終戦直後の混乱はそごうにとって最大の荒波でした」
当時を知る元役員はこう振り返る。
本店ビルは空襲をくぐって焼け残ったが、大きな時代の波がそごうを待ち受けていた。昭和二十一年、進駐軍の接収を受け、PX(軍人、軍属向けの物品販売所)兼慰安施設となってしまったのだ。
そごうは大阪市内の五つの営業所に分散して「百貨店という名からは程遠い」営業形態で看板を守り、経営の中核は神戸支店が担った。
元役員は「物資不足の時代ですから、並べると何でも飛ぶように売れた。その間には朝鮮戦争の特需もはさんでおり、多くの日本の企業はこの時期に復興のきっかけをつかんだ。でもPXとなったそごうの人間には、大丸の盛況を歯がみしながら見守るしかなかった」といまだに悔しさを表す。
さらに、そごう本店ビルには星条旗が翻り、関係者以外は「オフリミット」(立ち入り禁止)の注意書きも掲げられた。
「本店ビルは“日本人がみだりに出入りしてはいけない場所”というイメージまで植えつけられてしまった」(OB)。
かつて大丸に勤務し、そごうの経営戦略を分析した著書も多い作家の渡辺一雄さん(七二)によると、進駐軍の接収視察は、そごう、大丸ともに行われたが「視察の日、大丸側は故意にトイレを汚して視察団を受け入れたのに対し、そごうは隅々まで磨き上げていたため対象に選ばれたという話を耳にした」という。
時代の波に踏みつけられたそごうの経営の足踏みは、昭和二十六年の、サンフランシスコ講和条約の締結を受け、翌二十七年の接収解除で表面的には終止符が打たれた。が、その影響は長く続いた。
接収が解けた大阪店では、大丸との溝を取り戻すかのように次々と先端技術を導入、ひたすら豪華さを強調した。一階の心斎橋側は道行く人にも見えるようにガラス張りに改造、出入り口には英国製の強化ガラスを使った。側面が透明な国内初のエスカレーターも採用した。
しかし、こうした多大な投資は再び、経営の屋台骨を揺るがした。投資に加え政府に対する補償交渉など、混乱は続き、この窮地につけ込んだ地元不動産会社による株の買い占め、乗っ取り未遂事件も発生した。
そごう本店の現役社員の一人は「接収前の大丸を十とすれば、そごうは六ほどの商戦を展開していた。しかし、接収後は十対四、もしくはそれを下回るような苦戦を強いられてきたと聞いている」という。
この混乱期に社長の死去、重役の辞任など経営陣の変動も重なり、東京進出計画が失敗すると、方向性が見えないまま、巨額の負債だけが残った。昭和三十三年、板谷家の縁続きにあたる水島広雄氏=当時(四六)=が日本興業銀行を辞めて、副社長としてそごうの経営を継承したのは、巨額投資にそごうが押しつぶされそうになっている時代だった。
そごうのシンボルでもあった本店ビルは、今年八月二十三日、特別顧問として経営を受け継いだ元西武百貨店会長の和田繁明氏(六六)が建て替えを発表した。
そのニュースにOBのひとりはためいきをつきながらこうもらした。
「シンボルを撤去することで、これまでのイメージを一掃したいのでしょう。ただ、そごうの歴史は日本の近代流通業界の歩みそのものといっていい。歴史の荒波のあらがい難さは、ほんろうされたものでないとわからんでしょう」
■【水島体制の誕生】大正力と渡り合った気迫
「くどい。引き下がれ」
元警視庁警務部長で武道を心得た巨漢、正力松太郎・読売新聞社主は腰から抜いたベルトを手にした。
「やるなら来い。大家と店子は親子も同然、なぜ耳を貸さぬ」
立ち向かったのは水島広雄・そごう元会長(八八)。昭和三十三年に日本興業銀行を辞し、四十六歳で副社長としてそごうに乗り込んだばかりのころだ。
場所は日本テレビ会長室。事態に驚いた秘書が割って入ったが、正力氏はこの時の水島氏の気迫を買い、当時坪四千円だった有楽町そごうの家賃を、事実上半額の「売り上げの五%」とする値下げ交渉に応じた。水島氏は「あの大正力と大立ち回りを演じ、一目置かせた男」として大いに株をあげた。
この“事件”をきっかけに、その後、そごうが読売巨人軍の優勝記念セールを担当するようになった。
水島氏をよく知るOBは「学者、理論家というイメージが強いが、体を張った熱血経営者でもあった。本人もそれをアピールしたかったのか、有楽町店家賃引き下げ交渉の武勇伝は後々まで自慢の種でした」と証言する。
そごうの東京進出は、大阪・心斎橋で本店同士が隣接する大丸の八重洲出店の成功に触発されたという背景があった。しかし、進駐軍の本店接収による経営空白が生んだ混乱に加え、体力の差は、家賃だけでなく、店舗の狭さなど、あらゆる条件にはねかえった。
「有楽町で逢いましょう」のキャッチフレースや同名の映画、主題歌のヒットで華々しいデビューを飾ったにもかかわらず、「品ぞろえが悪い」といった不評が立った有楽町そごうの業績不振は、そごうを倒産寸前に追い込んだのだ。水島氏がそごうに副社長として乗り込んだのは、こうした台所状況が切迫した時期だった。
当時の板谷宮吉社長は責任をとって辞任したが、水島氏の夫人が、その板谷財閥の一員、板谷康男・板谷商船取締役の妹だった。
「よく誤解されますが、水島さんは興銀から送り込まれた再建役員ではない。大株主の板谷財閥代表という形での経営参画でした。それだけに有楽町そごうの後始末については必死だったのでしょう」と関係者はいう。
戦後そごうの窮状を救った水島氏は、その後、社長、会長として三十八年にわたり、そごうのけん引車として走り続けることになる。
水島氏は中央大学法学部をトップで卒業後、興銀の銀行員でありながら、企業の担保を専門に研究を続け、母校、中央大学の大学院で講師を、また東洋大学でも教授を務めた筋金入りの理論家だった。
昭和二十八年には、従来、企業が機械など所有財産一つ一つを担保にして銀行の融資を受けていたのに対し、経営者の意欲をはじめ企業の能力全体を大きな担保として、多額の融資を受けられるようにすべきだとする学位論文「浮動担保の研究」で法学博士号を取得。この理論は三十三年、実際に「企業担保法」として法制化され、復興をめざす日本企業全体に大きな恩恵を与え、高度成長を支えた。
その水島氏が社長に就任する前、社内では革命のような大混乱が起きた。
板谷社長が辞任した三十三年、臨時株主総会で当時、日本繊維工業社長で東北電気製鉄、京都新聞社などの会長を務める坂内(ばんない)義雄氏が社長に選任されたが、その坂内社長が三十五年に死去。
取締役会は後任を大株主の大和銀行をはじめ野村証券、山一証券、板谷宮吉氏ら大株主で作る「五者会」の推薦を待ったが、実際には筆頭株主、大和銀行の意向で副社長の若菜三良氏が選任された。
この人事は財界で物議をかもすところとなり、大和銀行が公正取引委員会に提訴される事態にまで発展。結局、三十六年、朝日麦酒の山本為三郎社長のあっせんで若菜社長は腹心らと辞任した。
この間、東京で活躍していた水島副社長に白羽の矢が立ち、一年後に正式に社長に就任したが、「水面下では大和銀行と若菜、対する興銀と水島による社内の激しい東西抗争があった」と指摘する元幹部もいる。
■【救世主・水島新社長】バブルに乗った経営理論
「後からくる旅人たちのために、そごうはもっともっと大きくならなきゃいかん」
進駐軍の本店(大阪店)接収による経営空白や有楽町そごう(東京店)の業績不振で暗礁に乗り上げていた戦後のそごう。その窮状を救ったのは、旧経営トップの遠縁で、昭和三十三年、四十六歳で日本興業銀行を辞め副社長として乗り込んだ水島広雄・元会長(八八)だった。
その水島氏は内紛を乗り越え社長に就任した後、冒頭のような言葉を口癖のように側近や幹部らに語りかけ多店舗戦略の展開を訴えたという。
後からくる旅人とは、やがて入社してくる未来のそごう社員のこと。
「最初は“よそからきた人”“東京店の人”だと、親しみなどわかなかったが、理論家らしく博識で、同時に教育者らしく、その言葉は“出遅れた百貨店”の委縮した社員を感動させる電気を帯びていた。すぐに救世主のようなイメージに変わった」と、長年本店に勤務したOB社員はいう。
いずれにせよ、生みの苦しみが大きかった分、水島そごうの立ちあがりは素早かった。
三十七年には資本金を十億円に増資。翌三十八年には「経営合理化計画」を発表。営業、人事、設備、経費、組織の五項目の合理化を掲げた。古い社員の多くは「そごうは水島さんが実権を掌握して以後、全く別の会社に生まれ変わった」と証言する。
同じころ、水島氏は労働組合との関係改善にも力を入れた。
当初は臨時賃金支給をめぐって労使が対立、激しいストライキが社外から批判を浴びたこともあったが、社長に就任した水島氏は新賃金体系を打ち出し、労使関係は急速に協調に向かって動き出した。
「帰宅の際には社員バッジを外す。飲み屋で大丸の社員と出会ったらそっと席を立つ。そごうの食料品売り場で買い物をしているのは、自店の混雑を嫌ってやって来る大丸の社員ばかり」(OB社員)という環境の中で、社員の士気やモラルは低下。加えて顧客の不評という悪循環を生み出していた。
水島そごうの誕生にOB社員は「水島新社長の話を聞いていると、元気が出てきた。教育者が出来の悪い生徒をやる気にさせるような雰囲気だった」と話す。
所得倍増が叫ばれた高度成長期だが、その高度成長を間接的に招来させたともいえる水島氏の浮動担保理論は時代の順風を受けた。四十一年には「成果第一主義」を経営方針に「全社売り上げ六十億円」の目標を掲げる強気の展開に着手した。
そして四十二年、四店目の千葉そごうで初の別法人による出店を展開。「百貨店は地域で一番大きな店でなければいけない」という「地域一番店主義」の発想は成功、四十年代半ばにはそれまでの赤字を解消、黒字に転じた。以後、出店、地価上昇、それを担保に新たに出店というサイクルをバブル崩壊まで繰り返した。
「自らがそごう入りした直後に苦しめられた東京店の失敗によほど懲りたのでしょう。出店するなら大きな店で、というその後の姿勢は、すべて有楽町そごうの反動だったと思います」と元側近はいう。
戦後そごうを苦しめ、水島そごう誕生のきっかけとなった有楽町そごうは、特別顧問で元西武百貨店会長の和田繁明氏(六六)によって九月二十四日閉店が発表された。
水島時代のすべてをみたという旧幹部はこういう。
「そごうは水島さんにとって、学者としての理論と仮説を実行に移す場だったのではないか。弱小そごうを全国、やがて世界に展開するという経営的野望に、学者経営者としてロマンを感じていたと思う。その理論がバブル崩壊とともについえるまでは…」
■【巨大なダイヤ】
“闇世界”にも太いパイプ
大手繊維会社「帝人」の大屋晋三社長(当時)の妻、政子さんの甲高い声が響いた。
「ひゃー、大きなダイヤモンドやわ」
昭和五十年代前半、東京・世田谷の水島広雄・そごう社長(同)の自宅か、有楽町そごう(東京店)の社長室でのことだった−と水島氏の知人は記憶している。大屋さんが水島氏から奪うようにしてまじまじと見たダイヤは二十カラット、時価一億円相当。「これが、児玉(誉士夫)さんからもらったうわさのダイヤなん?」
水島氏と右翼の大物、児玉氏が結びついたのはこの数年前。昭和四十六年に始まり、戦後最大と騒がれた三光汽船によるジャパンライン株買い占め事件だ。
三光汽船を率いる元国務相・河本敏夫氏との交渉に手を焼いていた調停役の児玉氏が水島氏に協力を頼み込み、何とか解決した。ダイヤはその謝礼だった。
水島氏と交渉した河本氏は、そごうを紹介する「そごう さらに壮大なる未来へ」(ストアーズ社、山森俊彦氏著)の中でこう回顧している。
「水島さんは金融界だけでなく、運輸省などの官界や政界と、あらゆる分野で顔を知られていた。大変、良い仲裁をしていただいた。水島さんが仕事を進めるうえでの原動力は、あらゆる分野の人たちに絶大な信用と信頼をいただいていることにある」
バブル期の平成三年、「水島人脈」をめぐるうわさが飛び交った。
旧東洋信用金庫(大阪市)などを舞台に、偽造した預金証書を担保に金融機関から巨額の資金を引き出した元料亭経営者の女性が逮捕された「尾上縫事件」。多額の金を貸し込んでいた興銀のために水島氏の力が発揮されたというのである。
「大半が不良債権化して問題になっていた。興銀が国会で徹底追及を受けそうになった際に、これ以上の追及をやめてもらうように水島さんを通じて自民党の“大物”に口を利いてもらったというのです」。元銀行幹部は当時のうわさについて解説する。
中央大の同窓生や講師時代の教え子、興銀時代の交際、親族などが水島人脈の基礎だといわれている。しかし、フィクサーたちとのつながりも尋常でない。
「最大の武器は有言実行の行動力と度胸。しゃべり方は穏やかなのに肝が据わっているから、信頼された」(そごう元幹部社員)。
「奈良そごうの件、よろしく頼みます」。昭和五十九年春、奈良県内の有力者宅で、「田岡一雄・山口組三代目組長の知恵袋」といわれた暴力団組長は頭を下げた。
この組長は同じ日、ほかにも複数の有力者宅を訪ねてまわった。「そごうのバックには暴力団組長がついている」。うわさはすぐに広まり、奈良そごうは地元の暴力団などから妨害や圧力を受けずに、平成元年のオープンを迎えた。
この数年前、神戸市の国鉄(現・JR)新長田駅前の百貨店の中華料理店で開かれた組長の親族の結婚披露宴で、水島氏の右腕といわれたそごう幹部が仲人を務めたこともあった。
「百貨店というのは、きれいごとだけではすまされない業界だった」。そごうとは別の百貨店の元役員はこう話す。
平成五年六月、水島氏の自宅の門扉に短銃数発が撃ち込まれた。水島氏を狙ったものなのか、誤射なのか今も分からない。
ただ、当時、東京・錦糸町の出店問題が、資金難で雲行きが怪しくなっていた時期。そごう側は「まったく思い当たる節はない」としたが、「さまざまな憶測を呼んだ」(流通関係者)。
「水島そごう」にとって、闇(やみ)の勢力とのつながりは、何を意味していたのか。
「もう少し時間がたてば、いろいろ話せるかもしれない」。神戸で暴力団とそごうの間を取り持ったとされる関係者はこう話した。
■【巨大旗艦の光と影】 あだになった横浜の成功
「今、横浜にはろくな百貨店はありませんが…」
横浜そごうが昭和六十年にオープンする前の式典。水島広雄・元会長(八八)=当時、社長=のあいさつに、招待客の一人だった横浜高島屋の役員は、聞こえないふりをして平静さを装った。
「あの言葉だけは一生忘れられない。百貨店業界はお公家さん的な人間が多いけれど、『水島そごう』はあまりにも違った」
売り場面積約六万八千平方メートル(当時)。世界最大規模を誇るグループ十七番目のこの店は、巨艦主義者・水島氏の集大成だ。高島屋や三越などが先行していた横浜に、「グループ挙げて殴り込みをかけた」(そごう社員)。
とりわけJR横浜駅をはさんで向かいあった高島屋との角逐は『横浜戦争』と呼ばれた。「水島さんの自信のあふれる言葉で、われわれも勝てると思い込めた」。ライバル店には尊大と映る水島氏の言葉も“三流百貨店”と自虐することが多かったそごう社員たちに勇気を与えていたという。
横浜そごうオープンから間もないころ、横浜市内のスナックで、地元企業の役員は、顔見知りの横浜そごうの幹部社員の手首に金製の高級腕時計が光っているのを見た。
「業績が良いのを喜んでくれた水島社長からもらったんです」。まるで勲章をもらった軍人のように誇らしげだったのを、この役員は覚えている。
横浜そごうでは、グループの弱点とされる外商部門でもしゃかりきになって業績を伸ばした。オープン前に採用した新卒社員らを次々に動員。高島屋の三倍近い人数で百万戸以上をローラー戦術でまわった。
「ひたすら、水島さんが言う『日本一の百貨店』にしたいという思いでみんな頑張った」と開店時からの社員は話す。
当時、高島屋の幹部社員は、得意先の地元の財界人にこう言われてショックを受けたのを覚えている。「お宅の百貨店は月に一、二回しかこないけど、そごうは毎週来るんですよ。若いけど熱心なので、買ってあげたよ」
ところが、『戦争』の結末は予想を覆すものだった。
オープン翌年の昭和六十一年度の横浜そごうの年間売り上げは目標を百億円上回る八百一億円。ライバル・横浜高島屋も前年度と比べて六十一億円増の千五百六十一億円まで伸ばした。横浜そごうは平成十一年度でも、そのライバルにあと二百九十億円に迫る千三百五十億円を売り上げている。
「東京に流れていた購買力を横浜に引き戻した水島さんの手腕はすごかった、ということですかね」。水島氏の言葉に歯噛みした高島屋の元役員ですらこう述懐した。
水島氏が横浜進出を決意したのは、昭和三十三年にまでさかのぼる。日本興業銀行の考査役からそごう副社長になったばかりの年。東京、大阪、神戸の三店舗だけで「倒産寸前の百貨店」(元社員)という状況での夢だった。
「横浜そごう開店10周年記念誌」には水島氏のこんな言葉が掲載されている。
「当時、横浜駅東口開発が始まろうとする予兆があった。私としては、駅と海を一体化した開発を考えていました」
水島氏は横浜市議会の一部などに生まれていた再開発の運動をいち早くとらえていたばかりか、元神奈川県知事や横浜市長といった有力者への根回しも忘れなかった。
ただ、その横浜の成功が「あだになったのかもしれない」と、横浜そごうの元役員は嘆息する。
横浜の後、地域開発と一体になって水島氏が進めた出店は二十店以上。昭和三十年代の発想がバブル崩壊まで続けられた。
七月に民事再生法の適用を申請した時点で、横浜そごうの負債は千九百五十五億円。
元役員は言う。
「大きなことはすべて水島さんが決めることで興味もなかった。言う通りにしておけば間違いないと思っていたから…」
■【担保論と再開発】地域取り込んだ水島方式
そごうの水島広雄・元会長(八八)は、自らの経営をよく網の目に例えた。「店は網目の結び目の一つ。この網の目が多くなればなるほど、丈夫になり、他の網の目がお互いに支えあう」と。
“錬金術師”。水島氏はしばしばこう例えられる。そごうを約四十店舗に拡大し、業界トップクラスにまで押し上げた手腕への称賛でもある。
この錬金術の原点は、自らが日本興業銀行時代にまとめた論文「浮動担保の研究」だ。水島氏にとって、そごうは自分の理論を実践するフィールドワークの場所だった。
出店地周辺を買いあさり、出店で地価が上がることで資産を増やす。こうして担保力をつけた黒字の店がお互いに債務保証しながら銀行から資金調達し、新たな店舗を作っていく。
例えば、そごう本体が一〇〇%出資して設立した千葉そごうが軌道に乗ると、今度は千葉そごうが出資して、柏そごうを設立。さらに柏そごうと千葉そごうが共同で札幌そごうなどに出資するという形だ。
多店舗展開は、それぞれの負担が小さくなるというメリットもある。例えば、十店舗で出資したケースで一社あたりの負担が二十億円ならば、二十店舗では一社あたり十億円の負担で済むといったあんばいだった。
水島氏が法学博士を取得した論文「浮動担保の研究」は、日本の法制度の中に、英国独特の「企業担保制度」を取り入れた斬新(ざんしん)なものだった。
「会社を担保にする」という水島氏の「浮動担保」理論は、これまで土地や建物といった不動産に設定されていた担保の概
念を大きく覆した。
そして、昭和三十三年に「企業担保法」として成立し、“水島法”と呼ばれるようになった。
この理論を遂行するための“旗艦”が、昭和四十二年、そごう四番目の店舗として産声を上げた千葉そごうだった。そごう本体だけでなく、他店舗の筆頭株主でもあり、グループの親会社的な存在となった千葉そごうは、グループの多店舗展開を支え、「網の目」の核となっていった。
水島氏の錬金術を読み解くもう一つのキーワードは、「再開発」だ。
「ここでもうけた利益は一銭も本社には持ちかえらない」
徳島そごう(徳島市)が昭和五十八年十月、JR徳島駅前の再開発事業の一環としてオープンした際、水島氏は開店式典でこう言い切った。
約二万四千平方メートルもの売り場面積を誇るそごうの進出は圧倒的で、既存の二つの地元デパートを駆逐し、今では県内唯一のデパートにまで成長した。
「地方都市の再開発に目を付け、いい土地を買い、大きな店を建てる。すると集客力が高まり、信用力を高めるという発想だった」。ある金融関係者は水島氏の錬金術をこう読み解く。
水島そごうは、この発想を次々と具現化するための情報収集にも余念がなかった。「店舗建設でつながりのあるゼネコンからも情報が入っていたのでしょう。地方都市の再開発事業の話をよく知っていた」と元金融機関幹部はいう。特に大規模な計画になると「軒並み、進出企業として名乗りをあげ、再開発を独占するような意気込みの時期もあった」(百貨店関係者)。
百貨店は、進出にかかる約三百億円を回収するだけでも十年近くかかるとされる。それだけに資金調達がネックになりがちだ。が、地元密着を強調することで、地元地銀からの融資も受けやすかった。
「地域経済のけん引役という役割を持つ地銀にとって、そごうとの取引はハク付けになるから、『そごうさん、再開発計画の際は、うちをお忘れなく』という雰囲気を自然と作りだしていた」と金融関係者はいう。
さらに別法人システムは社員の大半を地元の採用組が占めるという形で、地元に雇用拡大という大きな利点を生み落としていった。行政側にとっても捨て難いメリットだ。
ある百貨店関係者は「地方都市に都会の薫りを持ち込んだという点で存在意義は大きかった。地域一番店という方法は間違っていなかったかもしれない」と話す。