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日本最大の百貨店 そごうの実像2

脈打つ「水島イズム」
豪快かつ緻密 法学者の顔も 明治生まれの異能経営者

 巨艦店を中心とした地域ごとの別会社方式でのチェーン拡大,問屋重点主義。そこには元日本興業銀行マンであり,法学者の顔を持つ「水島イズム」が脈打っている。

売上高1兆円突破記念に座布団大のカステラ配る

証言「2~3年前,水島君から突然大きな包みが送られてきた。開けてみたら座布団ほどの大きさのカステラだ。とても家族では食べ切れず,隣近所に配ったよ」(水島氏と興銀同期入社の渡辺淳・日本債券信用銀行顧問)
 地域一番店にかける異常なまでの執念,さらには百貨店の常識を覆すような問屋重点主義--。これまでみてきた,そごうの特質は,過去30年にわたりグループを率いてきた水島氏の個性でもある。
 その一つがこの“座布団カステラ”に象徴される水島そごうの「豪快さ」である。“座布団カステラ”はグループ売上高1兆円突破の記念品。このほか,新しい店舗が開業するたびに,巨大なかわらせんべいを配るという。こうした贈り物は,横浜そごうに代表されるそごうグループの巨艦店主義を容易に連想させるが,同時に水島氏の気風も十分に表している。
 そごうの実像を知るには,水島氏の素顔を知らなければならない。だが,マスコミ嫌いの水島氏だけに,そのプロフィルは興銀出身の百貨店経営者,法学博士として実績を残したというほかは,あまり知られていない。
 水島氏は1912年(明治45年),京都府舞鶴に生まれ,現在80歳。36年に中央大学法学部を卒業して興銀に入行。融資課長,証券部次長,特別調査室付考査役などを経て,58年にそごうへ副社長として転じ,62年から社長を続けている。
 どのような銀行マンだったのか。
 証言「水島君が入行当初配属された福島支店でのこと。法学部出身だからソロバンに慣れていない。そこで,法律も大切だが経済も大切だよと,貸し付けの部署で計算係をさせてみた。ところが,仕事はベテラン女性に任せっきり。なかなか自分でソロバンをはじこうとはしなかった」(興銀時代の上司)
 証言「水島君と話していたら,岸君が,岸君が,と言うから,どの岸だと聞いたら,岸信介君だよと言う。どうせホラを吹いているんだろうと思っていたが,日を追うごとに政財界に人脈を広げていった」(興銀時代の同僚)
 これだけではない。「自信家」「負けん気が強い」「先の先を読める」など,興銀時代の水島氏を知る諸氏から異色の銀行マンという水島像が浮かび上がる。10店計画である「グレーターそごう」から30店の「トリプルそごう」まで矢継ぎ早に積極策を打ち出し,それを実現してきたのは,こうした水島氏の個性が大きく影響している。
 学位論文もとに「企業担保法」社長就任後も教壇に立ち続ける 
 では,水島氏の真骨頂とも言える,資金調達の妙,人脈の広さはどこから生まれたのだろうか。
 水島氏を語るうえで無視できないのは,「法学者・水島広雄」というもうひとつの顔だ。興銀入行後も毎土曜日には母校・中央大学の大学院講師として教鞭(きょうべん)をとり,53年には学位論文「浮動担保(フローティング・チャージ)の研究」で第5回毎日新聞学術奨励賞を受賞。この論文をもとに58年に「企業担保法」が立法化されている。
 そごうに転じてからも水島氏の学究精神は衰えなかった。そごう社長に就任してもなお中央大の教壇に立ち続けたほか,興銀時代に東洋大学法学部の設立に関与したことから教授を70歳の定年まで兼任。現在は学者としては引退の身であり,東洋大名誉教授といった肩書だが,百貨店業界内からはいまだこんな声が聞こえてくる。
 証言「水島さんに面会を申し入れても朝11時前にはアポイントメントを入れてくれない。どうも,毎晩2時か3時まで自宅の机に向かっており,そのため会社に来るのが遅いらしい」(水島氏と親しい山中・東武百貨店社長)
 水島氏によると「朝4時になることもある」という。9時に起床してそれから会社に駆けつけるのが日課である。今も,大学の教科書として使われている学術書の増補版などの執筆に取り組んでいる。
 中央大大学院で水島ゼミ出身の浅野裕司・東洋大法学部長は語る。
 「一つの学位論文をもとに法律が制定されたのは前代未聞のこと。ドイツ法の流れをくむ日本の民法は“一物一権”主義。そこに会社を一つの価値とみなして丸ごと担保を設定する英国法の概念を組み合わせたのが,水島論文です。並の研究ではありませんよ」
 法学者としての実績が,経営にどう反映されているか。法曹界からは「水島先生は自ら作り上げた理論を,そごうの経営で実証している」との声も聞こえてくるが,これに対して水島氏は「あまり関係ないよ」と笑う。そのへんの真偽を水島ゼミ門下生の一人である関口雅夫・駒沢大学法学部教授はこう解説する。
 「信託法には常に“受益者”という概念があります。これが地域一番店を作り,雇用や納税などで地元貢献をうたう経営理念に生かされていると解釈できる。それよりも水島先生は信託法や企業担保法の研究を通じて,企業の借金を知り尽くしたプロフェッショナルとみるのが妥当ではないですか」
 これだけ学問に精を出したのには理由がある。興銀は当時,国立大と私立大出身で給与格差をつけるほどで,「私大出身の水島君は常日ごろから面白く思っていなかったようだ」と当時を知る興銀OBは語る。そうしたこともあって,銀行マンよりも「法学者・水島広雄」に人生の活路を見いだしたとも受け取れる。
 水島氏は興銀時代,栗栖(くるす)赳夫・元総裁に師事したと言われる。栗栖元総裁と言えば,48年に蔵相として昭電疑獄に連座,失脚した人物だが,法学部出身の学究肌だったことから,水島氏をかわいがった。蔵相就任時に,水島氏は大臣秘書に,と声を掛けられたほど。「栗栖さんとの親交を通じ,金丸信,田中角栄,渡辺美智雄ら有力政治家,さらには小佐野賢治といった異色実力者との親交を深めた」と関係者はみる。こうした要人との交遊が,その後のそごう出店で威力を発揮したといわれている。

店舗接収,二度の経営危機…悲劇の百貨店に現れた救世主

証言「水島社長が役員会にみえると雰囲気が一変するんです。この前も,景気後退で売り上げが減って意気消沈気味の役員一同を並べて,そのうち景気も持ち直すから,それまでとにかく頑張ろうと大演説。最後は大爆笑で終わりました」(そごうグループ役員)
 一連の取材でグループ内から,いやというほど聞かされたのが,こうした水島礼賛の声である。経営不振にあえいでいたそごうに,救世主のごとく現れた水島氏。それだけに社内には「水島イズム」がとうとうと流れている。
 そごうの歴史をひもとくと,まさに悲劇の百貨店としか言いようがない。
 もともとは1830年(天保元年)に十合(そごう)家が大阪市内で創業した古着屋。ところが昭和に入って大阪本店の改装で資金調達がままならず,1935年(昭和10年)には北海道小樽市の財閥・板谷家が経営権を握る。
 46年(昭和21年)に大阪店を進駐軍に店舗接収され,それから約6年間,本店を奪われた格好で営業を続けた。ようやく大阪店を取り戻し,東京・有楽町に新店を構えたが,その家賃負担などがたたって57年度下半期決算で赤字転落,再び経営危機に直面した。
 業績不振の責任を取って当時の板谷宮吉社長は58年春に辞任。一族を見渡しても,さしたる後継ぎ候補はおらず,結果,縁戚(えんせき)の水島氏に白羽の矢が立った。水島氏の奥さんである静さんの実兄が板谷家の養子だった関係である。
 証言「これは水島社長宅のお手伝いさんから聞いた話ですが,千葉そごうが開業した67年当時,水島氏は東京都世田谷区の自宅で,朝起きると千葉方面に手を合わせて祈るのが日課だったといいます」(そごうグループ幹部)
 水島氏は当初から,百貨店経営に自信があったわけでもなさそうだ。社長に就任後,人員合理化,能力給を導入したことで知られるが,その背景には「就任した当初は,大阪店に過剰な設備投資をしたり,若手を一斉に管理職に昇進させるなどの大盤振る舞いをして,これがかえって業績不振に拍車を掛けたことが,合理化の決断につながった」(当時を知るそごう社員)という事情がある。

チェーン化,別法人方式の第1弾千葉そごうの成功で経営に自信

合理化の効果で,収益が回復するとともに,持ち味の強気が台頭,その後,「日本一宣言」を打ち出した。
 水島氏の自信となったのが,チェーン化の第一歩として開業した千葉そごうの成功である。もともとオフィスビルだった建物で,水島氏は経営陣の反対を押し切って66年10月に会社設立,翌年3月には開業にこぎつけた。
 千葉そごうの経営は,従業員にも自信をつけたと言ってよい。「店舗の前は砂利道,こんな所に百貨店ができるのかという不安があった。でも有楽町そごうの社員だけでなく,大阪,神戸の社員も一丸となって千葉そごうの成功のために頑張った」と当時を知る社員は口をそろえる。
 ある面で水島氏は,よほどの強運の持ち主と言える。千葉そごうがチェーン化の第1弾だったのに加え,別法人としたのも,そごう本体の経営に影響させない苦肉の策だった。しかし,これがその後のそごう拡大のモデルになった。
 千葉への出店と並行して,広島や大阪・阿倍野で用地買収を始めており,チェーン拡大の布石を打っていた。広島そごうはそれから7年後の74年の出店であり,大阪・阿倍野はいまだ地元と調整を続けている。そこに水島氏の先見性がある。
 「銀行マン・水島広雄」としての緻密な一面も見逃せない。東京・有楽町店は店舗面積1万3000平方メートルに過ぎず,東京都心部のフラッグシップ店の出店が水島氏のいまだ果たせぬ念願。かつて東京・東池袋のサンシャインシティーへの出店では,東急百貨店,西武百貨店とのし烈な競争を繰り広げた末,一時はそごうの出店が内定した。しかし,JR池袋駅からの地下道計画が白紙になると「集客面で難がある」とみて,さっと出店をあきらめた。昨年秋のJR新宿駅南口の跡地の再開発コンペでも,銀行に対しては協力を頼みながらも,家賃が坪3万円を超えると,「これでは採算はとれない」(水島氏)と断念。急激な多店舗化は,一見無謀のようだが,しっかりソロバンをはじいている。
 水島氏がそごうに転じてまざまざと見せつけられたのは,“百貨店”の利益率の低さである。
 利益率の低さは,返品を前提とした「委託販売」,消費者が商品を購入した時点で,百貨店と問屋間に仕入れ契約が成立する「消化仕入れ」といった百貨店業界ならではの取引慣行によるものだ。このため,問屋は返品リスクを負う代わりに,値付けや仕入れ量の権限を実質的に持ち,社員を派遣するとともに,仕入れ値は高く設定され,結果として,百貨店の利幅は小さくなる。買い取りならば,仕入れ値は小売価格の50%になるところが,アパレルでは65%,食品では75~80%という具合である。
 だが,水島そごうは,チェーン拡大のために,あえて委託販売をとことん利用,店内は派遣社員にゆだねる方法を選んだ。限られたそごう社員の人材をなるべく新規出店の開発に配分するためには,委託販売に頼らざるを得なかったわけである。だからこそ,水島氏は問屋トップに頭を下げ,協力を仰ぎ,問屋重点主義を唱えた。
 そのうえで,別会社方式でそれぞれが土地資産の再評価で累積損失を一掃する「水島マジック」のシステムを築き上げた。
 小売業は店頭での小売り業務こそが本業と言われる。だが,チェーン拡大を進め,企業の成長を望むならば,デベロッパーとしての事業は無視できない。店頭小売りとデベロッパー的事業のバランスがとれてこそ,成長の決め手と言える。
 社内外でそごう経営の不安材料と言われるのは,後継者について明確にしていないことである。これまで何度も水島氏の高齢を意識して社長交代説が流れてきたが,過去30年間,水島体制は不動である。
 だが,水島氏が後継者に経営権を譲ったとしても,そごうの今後が順風満帆というわけではない。銀行サイドからはこんな意見が聞こえてくる。
 証言「バブルがはじけて,水島社長は辞めようにも辞められないだろう。銀行にとって水島社長あってのそごう。あの人以外では,銀行は今までのような対応を続けられない」(ある取引銀行)
 水島社長が引退すれば,そごうの強みと言える「水島担保」はなくなるというわけだ。これまで,日本一の百貨店を目指し,売上高1兆円突破記念として座布団カステラを配りながらも,ここにきて「グループという意識はない。グループ各社の自主独立を尊重する」と水島氏は言う。これは将来に備え,水島氏を中心とするグループ経営から,各地区の核店舗がリーダーシップをとる連邦経営の準備に入ったとも受け取れる。

「50店舗になったら体質を最構築」アイデンティティーの確立が急務

船井幸雄・船井総合研究所会長は「10年間は何もするな。かつて西武鉄道総帥・堤康二郎氏が息子・義明氏に遺言を残したように,水島社長はこう後継者に言い渡すべきではないか」と語る。確かに,50店達成こそしていないものの,売上高で日本最大規模になった今,急激なチェーン拡大は小休止すべき時期かもしれない。
 水島氏自身「50店舗になったら体質を再構築して,経営に磨きをかけたい」と発言したことがある。大きな器は作ったのだから,後に続く者が頑張れ,と言いたげだ。
 水島氏は旧態依然の百貨店産業で独特のチェーン拡大のシステムを築き上げた。それでは後継者たちは,どう経営に磨きをかけるのだろうか。
 山中・東武百貨店社長は「短期間にこれだけの規模に成長しただけに,そごうの百貨店としてのイメージが確立されていない。CI(コーポレートアイデンティティー=企業イメージの統一)を確立することが急務」と指摘する。確かに消費者からみれば,そごうに行けばどんな商品が買えるのかなどのイメージは薄い。
 周囲からことあるたびに指摘されるのは,百貨店主導で仕入れから価格を決定する“自主マーチャンダイジング(MD=商品政策)”の欠如。つまり,急激なチェーン拡大を支えた問屋重点主義への批判である。
 もちろん水島氏は自主MDの必要をひしひしと感じてはいる。強力なMDにより高収益を生み出している青井忠雄・丸井社長を引き合いに出して,「うちには“ミニ青井”と呼ぶべき人材が数人いる」と漏らしたことがある。
 高級ブランド品を仕入れることだけが自主MDではない。そごうが一部店舗の生鮮食品売り場で始めた来店客が商品をレジまで運ぶスーパー形式の「集中レジ方式」の導入もMDの一つのアプローチである。
 米国では百貨店の経営危機,倒産が相次ぎ,今や高級路線か大衆路線かを明確に打ち出した百貨店だけが生き残るとされている。百貨店の基本と言われた対面商法を望まないほど,消費者のし好は大きく様変わりしようとしている。
 これまでのそごうの路線を考えれば,今後は低コスト経営に磨きをかけ,大衆百貨店としてのアイデンティティーを確立することが急がれよう。(1992/11/09)

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