そごうに史上最高額の借金棒引き要請をさせた男“怪物”水島会長の虚と実
日経ビジネス 2000.04.17
4月6日午後5時すぎ。東京・丸の内の東京会館は緊張した雰囲気に包まれていた。そごうの緊急会見に駆けつけた記者の前で、社長の山田恭一は用意した原稿を棒読みするように、こう言った。
「6390億円を、まことに遺憾ながら金融機関の皆様に、免除のお願いをさせていただく予定でございます」
メーンバンクの日本興業銀行や日本長期信用銀行など、取引銀行73行に対する史上最高額の“借金棒引き”要請――。これまで経営難が囁かれるたびに否定してきたそごうが、ついに白旗を上げた瞬間だった。そして、病巣は予想以上に拡大していた。
山田の「どうも申し訳ございません」という言葉に合わせて、4人の代表取締役が立ち上がり、深々と頭を下げた。だが、その中にそごうを率いて膨張と転落を演じた主役の姿はなかった。
水島廣雄、88歳。1962年の社長就任以来、40年近くそごうに君臨した。彼がトップの座に就いた時、そごうは売上高数百億円の弱小デパートだった。それを、最盛期にはグループ売上高を1兆2000億円まで伸ばして、「日本一の百貨店」の栄冠をつかんだ。だが、一方で借金を1兆7000億円まで膨らませ、今回の巨額の債務免除要請の元凶となった男でもある。
いまだに強い影響力を持つ怪物
質疑応答が始まると、何度となく繰り返された水島の経営責任を問う声を、山田をはじめとする経営陣はのらりくらりと曖昧な返答でかわした。
「水島会長はいつ、責任をとって辞めるのか」
「グループ各社の残務整理が終わり次第、退任をいたします」
「残務整理とは何のことか」
「会長の件につきましては、やはり会長ご自身がしかるべき時にご判断されることですから、私どもが申し上げることはできません」
会長を気遣い、敬語まで使ってしまうところに、そごう社内における水島の独裁ぶりが透けて見える。まるで会見場までもが、陰で水島に操られているかのような印象を受けた。
会見終了後、会場を後にする副社長の阿部泰治は、こう言い残してクルマに乗り込んだ。
「水島廣雄は怪物ですよ」――。
弱小百貨店から業界トップへ、奇跡のような成長を続けた背景には、水島が作り上げた政官財にまたがる人脈があった。
妻・静の親族には香川県の代議士、木村武千代がいた。また、興銀勤務時代から開拓した政治家人脈の中には、岸信介、田中角栄、中曽根康弘、福田赳夫といった歴代総理大臣がずらりと並ぶ。母校の中央大学法学部で講師をしていたことから、その教え子たちが官庁や地方自治体で広い官僚人脈を形成した。財界でも、興銀の中山素平をはじめ、野村証券の瀬川美能留、東映の大川博などの大物と親交があった。政財界の黒幕的存在だった児玉誉士夫や小佐野賢治とも懇意だった。
こうした広く深い人脈を築くことができたのは、水島の性格によるところが大きかったという。
「人心掌握術にかけては天才的なものがある」(元そごう幹部)。社内でもいまだに水島に心酔する社員が多い。
急成長しても驕った様子を見せず、腰も低い。部下にも「さん」づけで話し、注意するときは直接言わずに人を介して伝える。大好きな相撲を観戦しないのも、「枡席に座っている社長がテレビに映ってしまったら、社員がどう感じるか」と案ずるからだという。カネを貸しても、自分から返済を迫らない。「カネを借りる人は、苦しくて困っている」と、じっと我慢する。
こうした姿勢が、社内に「水島教団」とも言える独特の雰囲気を作りだした。冒頭の会見のように、はたからは異様に聞こえる水島擁護の発言が出てくるのも、こうした背景があるからだ。
社内ばかりではない。アパレル大手の東京スタイル社長、高野義雄は、「そごうに万一のことがあって損失を被っても、恨むようなことはない」と言い切る。
高野も水島に惚れ込んでいる1人なのだ。75年のこと。株式公開を控えて増資を目論む高野は、取引先に引き受けを頼んで回った。「値段が高い」と渋る百貨店トップもいる中で、水島は開口一番、こう言った。
「君が社長なら会社は必ず成長する。いくらでも引き受けますよ」
この時の感動は、高野の脳裏に深く焼き付いている。その後も、高野の父親が亡くなった時、水島は部下を引き連れて甲府での葬儀に参列した。
そごうと水島は崖っぷちに立たされている。だが、彼を守ろうとする社内外の信奉者たちはいまだに数多くいる。
この異様な状態こそ、そごうを急成長させた一方で、今日の存亡の危機を招いた真因だと言える。いつしか、水島廣雄と彼の経営は神格化された。そして水島の後をひた走る人々は、ついに引き返せない瀬戸際まで追い込まれてしまった。
水島の軌跡を、彼が固く口を閉ざす前半生から辿っていくと、そごうの栄光と挫折の原点が見えてくる。
興銀マンと法学博士の2つの顔
京都の北端にある日本海に面した漁村、成生。舞鶴の中心街から車で1時間近く走ると、道路は行き止まりになる。そして波打ち際からわずか数mのところに、20余りの家屋が肩を寄せ合うように建っている。明治45(1912)年、水島はこの漁村に生まれた。今でもその生家は残っていた。
水島の実家は、「裕福な網元」と言われてきた。だが、生家に住む弟の忠雄は、首を横に振ってこう話す。
「見ての通り、この村の人は、みな半農半漁の生活です。漁業だって協同組合方式です。なぜ網元と言われているかって? その方が銀行から信用されるからじゃないですか」
15歳の雪の降る早朝のこと。水島は両親に見送られて、東京へと旅立った。拓殖大学の予科に入学し、法律の勉強に打ち込む。夏休みに実家に戻ると、土蔵にこもって六法全書を暗記するまで読み込んだ。そして、中央大学法学部に合格する。学業が飛び抜けて優秀だった水島は、2年の時に特待生になり、卒業時には英法科の首席だった。学者としての道もあったが、興銀に入行している。
「国富ということを真剣に考える人だったから、興銀を選んだのではないか」。中央大学で水島の講義を受け、その後に法学者となった駒沢大学教授の関口雅夫は、こう話す。当時から、興銀は日本の産業育成を担う金融機関だった。豊かな国、豊かな生活への憧れを持つ水島は、躊躇なく大学へ残る道を捨てたという。
この選択について、弟の忠雄はこんなエピソードを語った。
「兄は海軍に入ることが夢だった。だけど、視力検査でひっかかって兵役免除になってしまった」。この挫折がコンプレックスとなって、国富を追い求めることを自らに課せられた使命だと考えるようになったのではないか、と見ている。
第2次大戦後、水島は焼け野原になった東京をいかに復興するか、思いを巡らせていた。興銀で融資課長、中小工業部次長などを歴任した水島は、担保登記を簡便にすることを目指した。興銀マンとして働くかたわらで、母校で法律の教壇にも立った。53年に「浮動担保の研究」という学位論文を完成させた。毎日新聞学術奨励賞にも輝いたこの論文を基に、5年後には「企業担保法」が法制化される。
この「法学博士・水島廣雄」というもう1つの顔は、彼の実像を複雑で分かりにくいものにしていた。論理的、合理的な思考を求められる学者と、情の深い経営者は、あまりに対極にあるように見られたからだ。
「世間では水島廣雄は2人いる、と言われていた。まさか同一人物だとは考えられなかったのでしょう」と東洋大学教授の浅野裕司は振り返る。
しかし、法律家としての取り組みは、彼の経営哲学を違う世界で実践していただけのことだと言える。
企業担保法は、無担保社債が出せなかった時代に、企業の資金調達を支えた。大手企業はこぞってこの法律を活用し、戦後の復興と高度経済成長を実現していった。国富を思う水島の努力が、見事に結実した事例だと言える。
法と制度の盲点をつき急成長
法律と制度を熟知していた水島は、そごうの経営者としてもその異才を発揮した。金融制度をはじめとした日本の経済体制は、欧米から大きく遅れた前近代的な状態にあった。これを逆手にとって急成長していったのだ。
そごうに転職したのは、妻・静がオーナー一族である板谷家につながる家系だったことがきっかけだった。58年、東京・有楽町店の失敗などで赤字に転落し、社長だった板谷宮吉が引責辞任する。その時、一族代表として副社長に就任したのが水島だった。
62年に水島はそごう社長の座を手に入れ、5年後に千葉そごうを開店させた。この時、水島は別会社を作って、新店を立ち上げている。このやり方について、「もし失敗しても、そごう本体に影響が及ばないように考えた」と語っている。
だが、結果的に千葉そごうが成功を収めると、別会社方式による出店は戦略性を帯びてくる。まず、出店候補地や周辺の土地を、秘密裏に様々な会社名義で購入する。そして、そごう本体や千葉そごうなどの基幹会社が出資して、経営母体となる会社を設立する。いざ、出店となると、グループ各社が債務保証して、新会社に低利で巨額な資金を調達できるように支援する。
出店構想が明らかになると、もともと買い取っていた土地の価格が高騰する。その含み益を新会社に吸収させ、初期投資による累損を一掃させるのだ。開店後、あっという間に黒字の新会社が生まれることになる。そうすると、次はその会社が新規出店の資金調達窓口になっていく。
こうして千葉そごうなどの基幹会社を中心に、複雑な資本関係を築きながらそごうグループは増殖していった。水島は千葉そごうの株式を約50%保有していることで、実質的にグループのオーナーという立場を保った。
ここで重要なポイントは、唯一の上場会社であるそごう本体が、グループ会社のほぼすべてを連結対象外にしていることだ。グループ各社が少しずつ出資することで、連結決算の網の目をかいくぐっている。そごう本体の財務リスクを軽減し、さらにグループの全体像を見えにくくしている。日本の金融・会計制度の盲点をつく勝利の方程式を完成させていた。
こうした出店戦略をさらに強力に推進したのは、ほかでもない水島人脈だった。全国の地方自治体には中央大学における水島門下生の人脈が張り巡らされていた。また、旧国鉄人脈を持っていたことで、JR主要駅の隣接地への出店も少なくなかった。
グループ10店舗を目指した「グレーターそごう」構想を79年に達成すると、出店ペースは加速度的に上がっていった。その後は20店舗の「ダブルそごう」を87年、30店舗の「トリプルそごう」を91年に実現している。それも、「地域一番店」という地元最大級の店舗を目指していた。飽くなき規模の追求は、80年代後半にはバブル景気の波にも乗って、ピークに達していた。
急拡大の裏で、そごうは商品構成を問屋任せにする「問屋重視主義」の方針を打ち出した。水島はそごう入社直後、百貨店の仕入れ担当者にペコペコと頭を下げる問屋の社長を見て違和感を覚えた。「問屋さんとうちとはイーブンの関係です。商品知識は問屋さんの方が豊富なのだから、お任せします」。この言葉に、問屋の社長や担当者は胸を打たれたという。
「極めて日本的で、浪花節の経営」。元そごう幹部はこう表現した。日本の制度や文化の特殊性を熟知し、家族的で情の経営を貫いた水島廣雄。だが、時代は着実に動いていた。
水島の経営理念が時代とずれてきた最初の出来事は、89年の大店法緩和の議論だった。大規模小売店の出店を抑制する法律の緩和・撤廃は、百貨店経営者にとって願ってもないことだと思われていた。だが、水島はこの流れに異議を唱えた。「無秩序な競争が起きる」として、反対の意見を表明したのだ。政官財の強力な人脈を利用して出店してきたそごうにとって、規制こそが自らの権益を守る防波堤の役割を果たしていたのだ。
90年代に入り、そごうは日本一という束の間の栄光から、巨額の債権放棄要請という奈落の底まで転げ落ちることになる。この原因を、バブル経済の崩壊と消費低迷に求めることはたやすい。だが、こうした経済情勢は小売業者全体を襲った荒波でもある。そごうの窮状の原因は、水島流経営が変動する経済構造とのミスマッチを起こし、その溝を広く深くしていったことにある。金融・会計制度の世界は、急速に欧米流の公正・透明なものへと変貌を遂げつつある。地価には収益還元法という考え方が浸透し、かつてのような上昇基調は望めなくなっている。
企業間競争が激化する時代に、そごうはあまりに競争力のない組織になっていた。アパレル大手のワールド社主、畑崎廣敏は「水島さんは北極星のような経営者だった。そごうの進むべき道を明確に示すことができた」と評価する。だが、裏を返せば、トップの大号令のもとに、ひたすら全力疾走する集団になっていたと言える。問屋重視主義は、仕入れノウハウを欠落させた。立地と規模だけを追い求める「考えない組織」は、必然として時代への対応力を欠いていた。
情実経営破綻、錬金術も機能停止
92年、水島は拡大戦略を見直すと宣言した。だが、水島経営はその後も基本理念は何ら変わっていない。リストラもさして進まなかった。
「経営はブレーキやギアチェンジ、バックをすることも必要だ。でも、情の深い水島さんは、社員や取引先の血が流れるような決断には、踏み切れなかったのではないか」とマイカル社長の宇都宮浩太郎は分析する。
94年、そごうはメーンバンク格の興銀と日本長期信用銀行からそれぞれ人材を受け入れ、副社長に据えた。そして水島は会長となり、経営の一線から退いたかに見えた。
だが、社内では水島独裁が続いていた。
何度となく巨額の借金による経営難が囁かれたが、水島は「私が担保。私が融資を頼めば、銀行は嫌だとは言えない」と豪語していた。
そんな水島とそごうが、債権放棄を要請しなければならない屈辱的な状況に追い込まれたのは、皮肉にもそごうの急成長を支えた会計制度の盲点に、光が当てられたからだ。2000年2月期決算で、そごうの監査法人はグループ会社向けの貸し付けや債務保証に1400億円を超える引き当て処理を実施させた。この結果、そごうは1230億円の債務超過に陥った。グループ会社の業績がそごう本体に影響することを遮断していたシステムは、ついに突き崩されることになった。法律と制度の盲点を突いた水島の錬金術は、機能停止に追い込まれた。
それでも水島は、自らの経営が正しかったと強弁する。債権放棄の実現にも自信を持っている。
「水島さんは、銀行には大きな貸しがあると考えている」(東洋大学の浅野教授)という。そもそも、そごうの借金は、銀行が押しつけるように貸したカネではないか、というわけだ。興銀時代に法律まで作って銀行を儲けさせたという思いも強いという。
最後まで情にすがろうとする水島は、効率と合理性に基づいた経済へと急速に変わりつつある中で、孤塁を守っているように見える。
さらに自らの退任をもはぐらかし、名誉会長や顧問として残るシナリオも考えている。それを聞いた銀行の役員は、あきれ顔でこう言い切った。
「そんなことが許されるはずがないでしょう。少なくとも会長と社長は辞任してもらうことになります」
水島廣雄 そごう会長 激白 放漫経営していない、債務免除は当然
確かに今そごうは苦しいですよ。しかし、そごうグループが売上高1兆2000億円に達し、百貨店業界のトップに立ったこともあるのです。今から10年後、いや7〜8年後でしょうか、景気がよくなった時のことを考えてごらんなさい。1兆円の売上高が2〜3%伸びるだけで、200億〜300億円の現金が入ってきます。実際に売上高が2%でも伸びていれば、銀行に頭を下げなくても済みました。
私は「景気がもう少し回復したら」と言って、そごうを去っていきます。しかし将来、景気が回復して、そごうが芽を吹いた時に、その売上高を可能にしたのは誰なのか、施設は誰が造ったのか、そごうを日本一の百貨店にしたのは誰か、問い直される日が必ず来ますよ。27店舗のうち5店舗は撤退することになりましたが、再び日本一を狙うのは夢ではありません。法人は死せず、なんですから。
私は、大阪、神戸、東京の3店舗しかなかったそごうを、30年余りで国内だけでも30店にまで増やしました。三越や高島屋は何百年かかって十数店だけしか店舗を構えていません。よその百貨店は雇われ重役ですから、借金してまで店を増やそうとすると社内の反発を受けます。でも借金をしないから売上高は増えません。
店は行政から頼まれて出したものばかりです。社会のための出店なんです。撤退することになった多摩そごうも、鈴木俊一・元東京都知事が「人口30万人になります」と言うから出店しました。ところが、実際には15万人にとどまっています。放漫経営と言われますが、どの店も理論を立てて出店しました。ただ、時に利あらず、だったというわけです。
私は、そごうを率いた40年で6000億〜8000億円くらい使いました。それが1兆7000億円の有利子負債にまでなったのは、利息が嵩んで倍になったからです。(今回の債務免除要請は)過去の銀行による貸し出し競争の遺物ですね。私が利息をまけろと言ったことがあるか、要らんと言ったのに借りてくれと言われて、銀行はどれだけの利息を取ったのか、一体そごうの借金を多くしたのは誰だ――。そう考えると、銀行が6390億円まけるのは当たり前です。借金が1兆円を切れば、そごうは再生しますよ。
国際通貨基金などの国際機関に何千人の専門家がいても、当時誰がバブルが弾けると言っていましたか。地球上の誰もがバブル経済が崩壊するとは思っていませんでした。
経営は結果がすべてと言います。しかし、一体どこの段階で結果を見るのでしょうか。速水御舟という日本画家がいます。近代日本を代表する天才画家ですが、生前から認められていたわけではありません。亡くなった後に世間は彼の真価を認めました。南方熊楠という民俗学者も、評価されたのは没後のことでした。
銀行は放漫経営と言うばかりで、そごうが世界的な資産を造ったことを知りません。例えばバルセロナに造ったホテルは、ヨーロッパで1番という評判をいただいていますよ。銀行の人間はそのホテルに行ったこともありません。そごうで開催した「大バチカン展」を通じて、バチカン市国とは、親戚付き合いと言ってもいいほど親しくお付き合いさせていただいています。
スーパーだけでは消費文化は語れません。ですからそごうが撤退となると地元自治体が銀行にまで陳情に行くわけです。美術館を併設している百貨店はありますが、博物館法で定めた美術館は、今では千葉、横浜、奈良のそごうだけです。その3カ所は、博物館法に定めた美術館ですから重要文化財も展示できるんですよ。
銀行の債務免除が成立したあと、私の立場がどうなるか、そごうに意思決定能力はありません。銀行が新しい経営陣を選び、その人たちが私を名誉会長にするか、顧問にするか、あるいは無罪放免にするか決めるでしょう。
水島廣雄をこう見る
水島会長とは30年の付き合いだが、とにかく偉い人だ。土地の値下がりさえなければ彼の戦略はすべて当たっていたはず。ただそれを支える人材は彼が偉すぎたために育たなかった。論理的な思考力では流通業の経営者で群を抜く。頭が良すぎたため、常人には考えつかないような複雑な財務スキームを作り上げてしまったともいえるだろう。
──船井幸雄 船井総合研究所会長
水島会長にはパーティーでお会いしただけだが、カリスマ性を感じたし、高度な財務論には米国公認会計士の私も共鳴できる部分が多かった。バブル期には壮大なビジョンや先端的な資金調達法を編み出して高い評価を受けたが、バブル崩壊で評価が一変した。水島会長は日本そのもののように見受けられる。彼の実績を現時点で裁くことができるのか、個人的には疑問を感じる。
──中瀬雅通 三陽商会会長
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