三流老舗百貨店を業界No.1に押し上げたカリスマ経営者の黄昏〜そごう元会長 水島廣雄〜
“天皇”と呼ばれた男たち 2010.01.15
毀誉褒貶は誰にもある。だが、彼くらい毀誉褒貶の激しい人物は珍しい。人付き合いが苦手な読書家で、法学博士の肩書きを持ち、母校中央大学の教壇に立ったこともある。だが、その傍ら、銀行マンから百貨店の経営者に転じ、悲願の日本一を達成するという手腕も発揮した。かつて、日本最大の百貨店網を誇ったのみならず、アジア各地にも出店を果たした「そごうグループ」。その頂点にあって、長年にわたり支配した男の正体とは?
つわものどもの夢の跡
「晩節を汚した」、「いや、銀行に騙されたのだ」。2000(平成12)年7月に民事再生法の適用を受けて、実質的に倒産に追い込まれたそごう元会長水島廣雄に対する評価は、いまだに定まっていない。
高度成長期からバブル期を駆け抜け、国内だけで30店あまりの店舗網を構築。老舗ながら三流と見られていた百貨店を日本一に導き、「そごうの天皇」と呼ばれた水島の足跡を辿っていくと、つわものどもの夢の跡といった情景が広がってくる。
水島は1912(明治45)年に京都府舞鶴市で生まれた。戦前、呉や横須賀と並ぶ軍港の町で育った水島にとって、視力検査で兵役免除になったことが汚点として残り、その後の人生を大きく変えていった。
15歳のときに両親に見送られて上京。拓殖大学予科を経て、中央大学法学部に入学。成績が優秀で、2年のときには学費が免除される特待生に選ばれ、1936(昭和11)年、英法科を首席で卒業した。後々、法務大臣の稲葉修、最高裁判事の塚本重頼とともに「中大花の11年組」と呼ばれるようになる。
中大卒業後、日本興業銀行(現・みずほホールディングス)に入り、福島市の東北支店に配属になる。入行の2年後に地元の女性と結婚し、長男をもうけた。だが、この最初の結婚生活は5年で破綻し、終戦の年に陸軍中将の娘、上原静と再婚した。
当時の水島は人付き合いが苦手で、隙ができると、読書三昧の日々を送っていた。さらに仕事の傍ら、母校の教壇にも立つようになった。
そして企業活動そのものを資産として認め、担保登記を簡便にする「浮動担保の研究」という論文を完成。41歳で毎日新聞学芸奨励賞を受賞し、併せて、母校から法学博士の学位が授与された。
法律研究家として頂点を極めた水島は、アカデミックな世界よりも実業の世界に興味があったとみえて、博士号取得の5年後、1958(昭和33)年に興銀を辞め、老舗百貨店のそごうに身を転じた。そこから彼の波瀾万丈の人生が始まる。
そごう社長への転身
水島とそごうの結び付きには再婚相手の実家が関与している。水島の妻、静の兄がそごうの大株主に名を連ねる板谷家に養子として入り、当時、そごうの社長を務めていたのだ。
その頃のそごうは、老舗にもかかわらず、大阪と神戸にしか店がなく、三流百貨店の扱いを受けていた。汚名を晴らすべく、1957(昭和32)年に東京・有楽町の読売会館に出店する。
だが、同業他社の4倍という高い家賃だったために、「有楽町で逢いましょう」というコマーシャルソングこそ流行ったものの、オープン当初から業績悪化に苦しめられていた。
東京店の業績悪化の責任を取って、静の兄が社長を退任。同時に、板谷家の代表という形で、水島が副社長の肩書きでそごうに送り込まれた。そこで最初に仕事は、家賃の引き下げ交渉だった。
社長ら役員3人で交渉に当たったのだが、読売のオーナーを努めていた正力松太郎の迫力に押されて、他の2人が脱落。残った水島が、半年がかりで交渉を進め、逗子にある正力の自宅にまで押し掛けて行って「このままだと、そごうが潰れてしまう」と説得。最終的には法学博士の肩書きが威力を発揮して、従来の半分以下の家賃にしてもらうことができたという。
1960(昭和35)年に社長が死去すると、社内で後継者争いが勃発。主力銀行の大和銀行が、自分のところから派遣した副社長を強引に社長に据えたことに、財界が猛反発。大宅壮一が「財界・松川事件」と評したくらいの泥仕合を展開した。結局、リコーの市村清など、財界大物の支援を得て、2年後に水島が社長に就任することになった。
「千葉そごう」を中核とした水島「そごう支配」の構図とは?
「レインボー作戦」開始
社長就任後の水島は、豪放磊落な反面、礼儀正しく、店内視察のときには社員を「さん」付けで呼ぶほど、腰の低い人物だった。まだ、“天皇”の片鱗すら現れていない。
それどころか「百貨店と問屋は対等だ」と宣言して、取引先を見下していた百貨店業界の顰蹙を買うありさまだった。だが、この精神が、後々、経営の効率化や多店舗化を図るうえで威力を発揮する。
水島の名が業界に轟いたのは、1967(昭和42)年の千葉そごうの開店からだ。当時の国鉄千葉駅の建て替えに合わせて、東京・銀座の塚本総業が駅前のオフィスビルを建設。テナントが集まらなかったために、百貨店の誘致を画策。大手百貨店にことごとく断られ、無名に近かったそごうの水島のところに「家賃はタダでもいいから入ってくれ」と頼み込んできた。
駅前とはいっても、人影もまばらで、売り上げの目途すら立たないような物件だった。だが、水島は出店を決意。地元商店が反対運動を繰り広げたが、当時の千葉県知事・友納武人の提案に従って、地元に別会社を設立。東京スタイルなど新規取引先の協力を得て、東京の百貨店に見劣りしない店舗をオープンさせた。
出店を決意したのは、興銀時代から付き合いがあった財界人の「レインボー作戦」という言葉がヒントになったからだ。
アメリカの流通業界では、大都市から一定の距離を置いて虹のように出店すれば失敗しないといわれている。その伝でいけば、千葉県と神奈川県を結ぶ国道16号沿いに出店すればうまくいくのではないか。レインボー作戦の第1弾として千葉そごうをオープンさせ、と同時に「ダブルそごう」作戦を打ち出した。
その頃から水島のカリスマ性が社内外に響きわたるようになる。以来、駅前立地、地域一番店、地元密着の別法人といった出店の方程式を確立。1979年に10店、1987年に20店の店舗網を構築。「トリプルそごう」作戦を達成した翌年、1992(平成4)年には悲願の売り上げ日本一を実現した。
「裸の王様」であることに気づいていなかった「水島天皇」
長屋王の祟り?
しかし、水島の出店戦略は、我が国の考古学に重大な影響を及ぼした。張本人は1989(平成元)年に10月にオープンした「奈良そごう」だ。
敷地面積41,509平方メートル。地上7階建てで、売り場面積が35,000平方メートル。「奈良最大の都市型本格百貨店」という謳い文句でオープンしたものの、民事再生法の申請時に存続店とならず、2000(平成12)年12月に閉鎖。3年後にイトーヨーカドー奈良店として再出発している。
奈良そごうは、そごうの創業者・十合伊兵衛の出身地ということもあって、グループ各社の中でも豪華絢爛を極めていた。各フロアには大理石や絨毯を敷き詰め、国内外の有名ブランドを誘致。1階フロアの中央には、法隆寺の夢殿を模した「浮夢殿」を設置。博物館法に基づく美術館まで設けられていた。
「国宝級の文化財まで展示できる」と水島は豪語していたが、奈良そごうの出店の陰で、どれだけの需要な考古学資料が破壊されていったか、その責任には触れていない。
奈良そごうは、市役所の移転に伴って、市街地再開発の一環として計画された商業施設だ。だが、出店予定地が平城宮の跡地の南側、奈良時代の皇族・長屋王の邸宅跡地に該当していたため、考古学関係者の間で「文化財の破壊だ」という声が上がった。事実、建設の過程で「長屋王家木簡」と呼ばれる奈良時代初期の貴重な文字史料が見つかっている。
にもかかわらず、水島はオープンを強行した。水島専用のエレベーターや“皇居”と呼ばれるVIPルームを設置。藤原一族の謀略によって死に追いつめられた長屋王の気持ちを慮ることもなく、王侯貴族の生活を満喫していた。これでは長屋王も浮かばれないだろう。
奈良そごうが閉鎖すると、「長屋王の祟り」といった言葉がまことしやかに流布されたという。
このような強引な経営手腕、そして政財界のみならず、フィクサーと呼ばれる裏社会にまで通じる顔の広さが水島にはあった。社内外の人間は水島の人脈の広さに度肝を抜かれたという。
だが、これらの要素が、水島のカリスマ性を増幅させ、彼の周りで苦言を呈すると遠ざけられる風潮が社内に定着し、水島は“天皇”と呼ばれながら、徐々に裸の王様になっていった。
水島は、自分が裸の王様であることに気づいていたのか。恐らく気づいていないだろう。
バブル崩壊後の1994(平成6)年、そごうが銀行の管理下で再出発を図るために、水島が会長に退かざるを得なかったときでさえ、人事権を手放さなかったといわれている。水島の“天皇”たるゆえんだが、その後も不動産バブルの再来を信じていたと聞くと、流通革命の覇者と讃えられたダイエーの創業者、故・中内功の晩年の姿と重なり合って、“天皇”の妄執といった言葉しか浮かんでこない。
「水島そごう」は、出店規制の網の目をかいくぐりながら規模の拡大を図ってきた。いいかえれば、不動産バブルの申し子だ。
新規出店に当たって、別働隊の組織が出店予定地の地上げを推進。地元に会社が設立されると、千葉そごうをはじめ、グループ企業が信用保証を行って融資を実行。新店がオープンすると、地価の上昇で、数年で累損を一掃。グループ企業の不動産を担保に、次の出店を計画し、事業の拡大を図ってきた。
だが、不動産バブルを前提にしたビジネスモデルはバブル崩壊とともに通用しなくなった。にもかかわらず、拡大路線を推し進めた結果、水島そごうは自主再建の道を断念し、最初に述べたように、民事再生法の適用を申し出て事実上の倒産に追い込まれてしまった。
負債総額1兆8,700億円。戦後6番目の大型倒産であった。
民事再生法の適用申請を行う3か月前に、水島はそごうグループの全役職を辞任。自分が持っていた千葉そごうの51%の株式を会社に譲渡している。そこまでは潔かったが、民事再生法が適用されると、「自分は銀行に騙された」と主張して、メインバンクの興銀や準メインバンクの長銀(現・新生銀行)を相手取って株返還訴訟を行い、金融機関に対する怨嗟の声を上げ始めた。
しかし、2001(平成13)年5月、1億5,500万円に及ぶ預金引き出しや義理の弟に対する土地譲渡が資産隠しに当たると見做されて、強制執行妨害罪で逮捕されてしまった。逮捕時に「君たちじゃ話にならん。警視総監に会わせろ」と叫んだというが、それこそ裸の王様になってしまった水島の最後の虚勢だったのではなかろうか。