2014.08.21
2000年に経営破綻した大手百貨店そごう(現そごう・西武)元会長の水島広雄(みずしま・ひろお)氏が7月28日、心不全のため、東京都内の病院で亡くなった。102歳だった。告別式は近親者のみで行った。喪主はおい、有一氏。そごう・西武は、社葬やお別れの会は行わない。水島氏は1936年に中央大法学部を卒業し、日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)に入行。58年、そごう副社長に転じ、62年から社長、94年から会長を務めた。経営責任を問われ、破綻直前の00年4月に辞任するまで40年近くトップの座に君臨した。この間、大阪と神戸、東京の3店だった老舗百貨店を、国内外40店舗を運営する百貨店グループに成長させた。売上高で百貨店トップを達成し、「中興の祖」と呼ばれた。
水島広雄さん死去:日本一の百貨店王から転落 波乱の人生
2014.08.21
7月28日に102歳で亡くなった大手百貨店そごう(現そごう・西武)の元社長・会長の水島広雄さんは、独自の手法でそごうを日本最大の百貨店グループに押し上げた異形の経営者だった。バブル崩壊で経営に行き詰まり、差し押さえを逃れるために自らの預金を隠した容疑で逮捕されるなど、波乱の人生を送った。
水島さんは日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)の行員だった1953年に「浮動担保の研究」という論文で法学博士号を取得した。利益を生み、拡大し続ける会社自体を担保の対象とする英米の先端理論を日本に紹介した内容で、後に法制化されたほどだった。
水島さんは58年に興銀を離れ、そごうの副社長に就任。地価が右肩上がりの時代に入ると、そごうのグループ各社が新店に出資し、開店後に膨らんだ新店の土地の含み益を担保に、さらに出店攻勢をかける手法で経営を拡大させた。
そごうトップに38年間君臨し「ワンマン経営者」とも評された。人心掌握術にもたけており、元横浜そごう店長の竹下八郎さんは「各地の店舗に足しげく通い、従業員とのコミュニケーションを大切にしていた。人を思いやる心があり、広い人脈も持っていた」と振り返る。会社経営の傍ら、東洋大や母校の中央大で教壇に立つ学者でもあった。
だが90年代のバブル崩壊によって、経済成長を前提とした拡大路線は行き詰まり、2000年7月に経営破綻。同年11月、破綻後初めて記者会見に応じ「放漫経営ではない」と強気を貫いた。破綻前後に自らの預金を隠したとして強制執行妨害罪に問われ、06年に有罪が確定した。
12年4月には、海部俊樹元首相や塩川正十郎元財務相、鈴木修スズキ会長兼社長らが発起人となった100歳を祝う会に出席。今年4月には、元そごう従業員の親睦会に参加し、元気な姿を見せていた。
葬儀は今月2日、東京都内の斎場で営まれた。出席者によると、喪主を務めたおいの有一さんが「倒産という形で、従業員や世間に多大な迷惑をかけたことを生涯悔やんでいた」と故人の思いを語ったという。
「倒産で迷惑かけた」百貨店の理想最後まで 旧そごう水島会長死去2014.08.21
水島広雄氏は政官財、法曹界の人脈を駆使し、そごうを売上高日本一に押し上げたが、バブル崩壊でその経営手法は時代の波に合わなくなり、挫折へと転落した。
一方で、多彩な顔を持つ異色経営者でもあった。興銀で働くかたわら、昭和28年に浮動担保の研究で法学博士の学位を取得。法制審議会委員として、5年後には「企業担保法」の法制化に一役買った。
企業への融資には不動産の担保が必要との常識を覆し、売掛債権や企業の成長力、信用力を一括で評価する仕組みで、戦後の産業界の資金調達に新たな道を開き、自ら経営で実践した。
同い年の日野原重明聖路加国際メディカルセンター理事長とは盟友で、聖路加国際病院の再開発や運営にも尽力。日野原氏が29年に予防医療の先駆けで日本初の人間ドックを導入した際の受診第1号だった。
平成24年4月に都内ホテルで開かれた100歳を祝う「百寿の会」には、元財務相の塩川正十郎東洋大総長、鈴木修スズキ会長兼社長ら約250人が駆けつけた。
先月の葬儀で喪主を務めたおいの水島雄一氏はあいさつで「『そごうが倒産という形になり、従業員や世間に多大な迷惑をかけた』と生涯悔やんでいた」と故人の思いを披露した。その一方で「親しまれる地域一番店で豊かな暮らしを実現する」との百貨店経営の理想については「最後まで信念は揺るがなかった」と振り返った。波瀾万丈の人生はバブル経済とその崩壊という日本の戦後経済史の光と影だったに違いない。
そごう水島廣雄元会長 102歳になっても師と慕われていた2014.08.22
かつて「そごう」(現そごう・西武)を日本一百貨店に育てた水島廣雄氏(元会長)が、7月28日に心不全のため102歳で亡くなっていたことがわかった。
「ダイエー創業者の中内功氏と並んで、“売り上げがすべてを癒す”と信じていた流通経営者の双璧でした」と話すのは、経済誌『月刊BOSS』編集長の関慎夫氏。同氏が波乱に満ちた水島氏の経営者人生を振り返る。
1936年に中央大学法学部を卒業し日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行した水島廣雄氏は、興銀マンとしてサラリーマン生活を送りながら「不動担保の研究」で法学博士号を取得。東洋大学法学部教授を兼務し、担保法の権威としても知られていた。
1958年には縁戚が社長を務めていたそごうに副社長として入社し、1962年に社長に昇格。以降、2000年の経営破綻直前まで、そごうの最高実力者として君臨し続けた。
水島氏が入社した当時のそごうは、大阪、神戸、東京の3店しかない中堅百貨店にすぎなかった。それが社長就任から約30年後の1991年、三越や高島屋などの老舗百貨店を抜いて日本一百貨店に躍り出た。それを支えたのが、思い切った多店舗展開だった。
都心ではなく都下や千葉市、横浜市など東京周辺部駅前一等地に地域一番店を出店、さらには東南アジアを中心に海外にも進出し、一時は国内外合わせ40店舗を誇った。
一つの店をオープンさせると、その土地を担保に銀行から融資を引き出し、次の店を出店する。また各地方自治体は、再開発物件のキーテナントにそごうを誘致、水島氏はそれに応えた。水島氏の攻めの姿勢と時代が一体化したことがそごうの急成長を支えていた。
ところが、日本一になるとほぼ同時にバブルが破裂、百貨店の売り上げは低迷する。そごうも例外ではなく、そうなると、過度の出店が自らの首を絞めていく。結局、2000年7月に2兆円近い負債を抱え民事再生法を申請するまで、そごうは加速しながら坂道を転げ落ちていった。水島氏の経営者人生は幕を閉じた。
ところが、水島氏の戦いはこれでは終わらなかった。古巣であり、しかもそごうの成長を資金面で支えてきた興銀相手に立ち向かったのだ。
そごうが経営破綻すると同時に、興銀は水島氏に対して個人保証の履行を求めた。1996年に錦糸町そごうを出店する際、興銀や日本長期信用銀行(現新生銀行)の融資約200億円に対して水島氏が個人保証をしていたため、それを履行せよと迫ったのだ。
これに対し水島氏は「個人保証契約そのものが、履行を求めないとの条件のもと結ばれたものだ」と全面的に争う姿勢を示した。常識的に考えても、個人が200億円もの債務を弁済できるはずもなく、あくまで経営責任を明確化するために、便宜的に個人保証に応じたもの、というのが水島氏の主張だった。
しかし興銀側は、「そのような条件はなかった」と全面的に否定した。当時、興銀は第一勧業銀行、富士銀行とみずほフィナンシャルグループを結成したばかりだった。二行へのメンツもあり、あくまで正当な個人保証契約だったと言い張るしかなかった。
2001年には、水島氏は興銀に差し押さえられた預金から1億円を引き出したと刑事告発され、逮捕され、刑事被告人にもなった。
この頃の水島氏は、口を開けば興銀の経営陣を罵倒した。そごうの出店に関して、興銀は積極的に融資した。時には水島氏が逡巡するような案件でも、興銀が背中を押したことで出店したようなケースもあった。「一蓮托生の関係だったのに、興銀は自分を裏切った」というのが水島氏の思いだった。
その一方で、「興銀側は担当者も口裏を合わせて条件付だったことを否定するため楽観はしていない」と胸中を吐露していた。そして実際に水島氏の興銀に対する債務は確定し、刑事裁判でも有罪判決が下った。水島氏の全面敗北だった。
口癖は「日本一」・・・旧そごう率いた水島広雄氏2014.08.22
102歳で亡くなった水島広雄氏は、旧そごう(現そごう・西武)を40年近く率い、売上高で日本一の百貨店へと急成長させた。
その経営手腕は「水島マジック」とも呼ばれたが、バブル崩壊で多額の借金を抱えたまま2000年に破綻。そごうの栄枯盛衰とともに歩んだ人生だった。
水島氏は1958年に日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)からそごうの副社長に転じた。当時のそごうは大阪の老舗百貨店ながら店舗は大阪、神戸、東京の3店のみで不振が続いていた。水島氏は地方や海外に次々と出店し、91年度には百貨店グループとして売上高日本一を達成。社長在任中に店舗数は40店を突破した。
水島氏の口癖は「日本一」「一番」だった。自身もほとんど休みをとらずに働いた。既存店の土地を担保に資金を借り入れ、出店を繰り返した手法は“水島流錬金術”の異名を取った。法学博士の学位も持つ理論派の水島氏に、社内の役員や社員も「水島信者」と言われるほどだった。
しかし、バブル崩壊で経営は暗転。社長辞任を発表した94年4月18日の記者会見では「百貨店経営は薄氷を踏む思いだった」と珍しく弱音を漏らした。担保とした不動産の価格が下落して、ふくらんだ借金が一気に負担となり、そごうは2000年7月に民事再生法を申請し、事実上倒産した。
水島氏は私財の差し押さえを逃れるため預金を引き出したとして強制執行妨害罪に問われ、06年に有罪が確定した。そごうは03年に西武百貨店と経営統合して「ミレニアムリテイリング」となり、06年にはセブン&アイ・ホールディングスの傘下に入った。
社長時代の水島氏は、ストレスがたまると海辺に出かけ、一日中誰とも口をきかずに釣り糸を垂れた。水島氏が率いたそごうの破綻は、百貨店の拡大路線の限界を示したといえ、業界に大きな教訓を残すとともに、その後の百貨店再編の呼び水にもなった。
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